southeast.

【サンプル(文章)】

　いくら学校には人がたくさんいるとはいえ、ふたりきりになるチャンスは作ろうと思えばいくらでも作れるものだ。一年通えば皆がよく通る廊下も、どういう流れで人が移動するのかも、使われていない部屋も、大体が見えてくる。
昼休みに入る直前にメールを送る。たった一言だ。十分後には、賑やかな校庭や教室とは正反対にひっそりと静まり返った部室で肩の触れるほどの近さで隣り合って座っている。
　手を握り指を絡め伝わる温もりの心地よさに溜息が漏れた。
「西谷は二人っきりになると静かになるなぁ」
「空気を読んでんスよ」
　嘘だ。旭さんの声や呼吸の音、肌越しに伝わってくる体温、微かに聞こえてくる規則正しい鼓動。全部を、全身を使って感じていたい。そのためには自分の声すらも邪魔に感じてしまうから、俺は息を潜め何かしゃべりたくなるのを必死に抑えている。
　とはいえ、そこまで必死でもないかもしれない。無音の空間は普段ならば耐えられないとあれこれ無駄なことから思いついたことから口にしてしまうけれど、旭さんと一緒にいる時間はそんなのが気にならない。過ぎていく時間はあっという間で、ほんの一言二言話しただけだったともしても、息苦しさがまったくない。
心地の良い空間というものを俺は旭さんと過ごすようになってから初めて知った。それまでは、練習をする体育館であったり、皆で駄弁る部室であったり、買い食いをする帰り道であったり、そういうのこそ楽しくて居心地の良いものだと思っていたのだった。今ではもう、旭さんのぬくもりなしにほっと息をつくことも、心底安らぐことも、どきどきして気持ちがそわそわしはじめることも、ない。
　もちろん、いろんなことを話すのも好きだ。俺の話に旭さんはなんだって付き合ってくれる。俺ばっかり話していて旭さんはうんうんと頷くばかりでも、「西谷の話はいつも面白いなぁ」と笑っていてくれる。俺はついつい旭さんに促されるままに休み時間にあったことだとか、昨日の晩飯のおかずがちょっと焦げてたことだとか、朝起きる直前にみた夢のことだとか、そういうことをべらべらと喋ってしまう。そういう時は、後から思えばテンションが高くて、いわゆるはしゃいだ状態ってやつなんだと思う。でも仕方がない。好きな人と一緒にいるっていうのに気持ちがふわふわしたり、幸せで飛び上がったりするって、あたりまえのことだ。
　それから、触れたいと思うこと。明確に、そういう欲求を抱いたときは自分のことながら暫く硬直するくらいに驚いた。呆然といってもいい。ベッドの上で、旭さんの写真を見ながらいつの間にか俺の手はパンツの中に潜り込んでいて、帰り際にちょっとだけ繋いだ手や近くに寄ったときのにおい、そういうのを思い出しているうちに俺の愚息はあっという間に昂ってしまった。旭さんにそのことを正直に言ったら、後ろ頭をかきながら「俺もあるよ」と言ってくれたので、ホッとしたと同時にそういうこと込みでお付き合いが始まっているのだと、大人の階段を一気に駆け上ったような気分だった。積極的でない旭さんはそういうところもやっぱり消極的で、でもゆっくりとやっていけばいいんだと無理に攻めるのもねだるのもやめておいた。
　これから、少しずつできることが増えていって、いずれは――と、そう思っていた時期が俺にもありました。 もうすぐ予鈴が鳴る。変なところ真面目な旭さんは授業の遅刻はもちろんサボりも許さない。先輩として、後輩に悪いことをさせられないとでも思っているのだろう。俺はきっちりと、二年生と三年生の教室の別れ道まで送られる。だからその前にアクションを起こし、結果を出さなければならない。そして俺は旭さんが付き合い始めたとなれば、いろいろ手順を踏みたがる人だということも知っている。好きですと告白して、手を繋いでほんの僅かな道のりとはいえ帰り道を歩く。ハグをすると、俺は旭さんにすっぽり包み込まれてしまうことを知った。そこまではトントン拍子にいった、ように記憶している。
　問題はそこからだ。旭さんはそれ以上仕掛けてこない。恥ずかしながら誰かと付き合ったり、ラブストーリーなんかの映画を見たりという経験の全くない俺は、どのタイミングでどうすれば次に行くのか――いけるのか、分からない。それは雰囲気であったり、きっかけであったり。でも先に進みたい。部活でするようなハイタッチ系のスキンシップではなく、恋人として好きな人に触れて触れられてというステップへ。夢想するだけで俺の股間はわかりやすく元気になってしまう。待ち望んでいる。俺の準備は万端だ。
　だというのに。
　旭さんは、何もしない。
　手は繋いだ、互いの思いも確認して、ほんの少しだけど――本当に、片手で足りるくらいの回数、ハグもした。離れがたくて旭さんの胸に顔を埋めていたら旭さんは困ったように笑っていた。となれば次はキスしてもいいんじゃないかと、俺はそう思うわけだ。
　腕が触れ合う距離にいて、頭を凭れかからせると旭さんの「どした？」とどっから出してんだと聞きたくなるくらい甘くて優しい声が降ってくる。ちろりと視線を上げると、太めの眉が垂れ下がり目元を和らげて旭さんは笑みを浮かべていた。きっと俺もそうなんだろうけど、好きだとか愛しいとか幸せとか、滲み出ている。そのままじっと見つめてほんのちょっと唇を開いて、あさひさん、と呼んだ。腰を浮かべるとその分視界が近くなる。ゆっくりと顔を近付けて、狙うは柔らかい曲線を描いている旭さんの唇だ。あと二十センチ。もう一声。しかし、いけると思った俺の考えは実に甘く、旭さんがひょいと上げた手に髪を撫でられ呆気なく距離は元通りにまで戻されてしまった。わずか一瞬の出来事だ。
「……旭さん」
　頬を膨らませたのに気付いていないとは言わせない。俺がそうやって旭さんが唇を許してくれないことを不満に思っているのを。すると、旭さんは表情をほんの少しだけ厳しくして、俺の頬を撫で手を離してしまう。そしてそのタイミングで予鈴が鳴り響く。タイムリミット。さっと立ち上がってしまった旭さんに手を述べられればどんなに重い腰でも持ち上げないわけにはいかず、二人きりの世界を俺たちは後にする。この日も、俺の挑戦は敢え無く散った。
　ずっとこうだ。旭さんに聞いたこともある。キスとかしないんですか、と。そうしたら旭さんは頬をぽりぽりかきながら視線を泳がせて「そのうちな」だった。したくないわけではない、らしい。というのも旭さんが俺の口をじっと見ていることがあるからだ。そんなに見るくらいならブチュっとこいよ。俺がやるのを受け入れてくれよ。けれども旭さんは全く動きません。そのうちってもしかしてリップサービスなのか。その可能性が否定出来ないくらいに、旭さんはその先へ進むことを頑なに拒む。
「なんでだよ……」
　轟沈した俺は、授業なんか右から左へと駆け抜けて次の作戦を練りつつ頭を抱えていた。女子の会話に耳をそばだてることだってやむなし。だがしかし、季節が変わっても何度目になるかわからない初チューアタックは一度も実ることはなかった。