無意識の攻防


 二人でいるときはなるべく携帯を弄らない、というのは約束したわけでもなければ相談したわけでもない。時計代わりに使う人も増えた世の中ではあるが、それでも目の前の相手をそれに触れる瞬間だけは通り抜けてしまうのだ。無論理由があれば否定することはない。必要性に駆られる事態というのは実はそう多くないもので、特段不便であるとも感じていなかった。だから、風呂を済ませて部屋に戻ったときに仁科カヅキが見せた姿に、珍しいと率直な感想を抱いたのだった。
 つい、と指が小さなディスプレイを滑る。ゲームをしているわけではなさそうだった。調べ物であればだいたいアレクサンダーが戻ったところで手を止める。昨今メールに成り替わる連絡手段となったアプリか、それともメールか。こちらに背を向け、ソファに半ば埋もれた体制であるとはいえ、アレクサンダーの存在に気付かないほど熱中しているカヅキの姿は、怒りや苛立ちを覚える前に、珍しさが立ったのである。悪戯心なんてものが自身のうちにあるとは己のことながら笑いが湧き上がるほどに意外なことで、だが迷った時間はほんのわずかだった。足音を忍ばせ、その背後に近寄っていく。たとえ音を消したところで、ゆっくりとはいえ空気の流れ、風呂上がりの熱さ、シャンプーなどのにおいで勘付かれる可能性は十分にあったはずなのに、カヅキは振り向くこともなければ小さな画面を見つめながら時折指を動かしていた。忙しいとは言い難いそれは、文字を入力するような動きではない。何かを探しては戻り、拡大、移動、先に進む。いったい何を見ているのか、画面の中身が分かるほどの距離まで来て、アレクサンダーは眉を跳ね上げた。
 途端に湧き上がった感情になんと名前をつけたものだろう。小さな画面の中いっぱいに映っていたのは、他でもないアレクサンダーだったのである。
 暴君、プリズムショーの破壊者などと呼ばれながら、アレクサンダーの実力は自他共に認めるものである。どれも、いつか一度だけ見た仁科カヅキのダンスに心を奪われ、焦がれ、その高みへと昇りたいと願い努力を重ねた結果である。FREEDOMーー仁科カヅキのその何者にもとらわれない自由な姿は、光り輝いているように見えたのだ。アレクサンダーにとっては再会、カヅキにとっては出会いであるあの高架下のダンスバトルの頃は、だからこそ失望が勝っていた。三人の生ぬるいユニット、女に媚びるばかりのプリズムショー、そして何よりもそんなものに甘んじている仁科カヅキが許せなかった。ストリート系の誇りをどこへやったのかと詰り、戦い、ーーその結果今こうしている。
 Over the rainbowの無期限活動休止からカヅキの見せるプリズムショーは変わった。それこそがアレクサンダーの求めていたものだった。俺はこれが見たかったのだ、そして打ち勝ちたかったのだ。アレクサンダーが恋い焦がれたものが目の前に広がり、焼き尽くされるような感覚に飲まれ、気が付いたら終わっていた。いつの間にかやってきていた仁科カヅキが、晴れ晴れとした顔をしていた。
 それからどうしてこんな関係に至ったのか、おそらくは偶然と偶然とほんの少しの必然がいちどきに重なったからなのだ。互いに悪くないと思っているからこそ保たれたバランスが、今この瞬間をも生み出している。仁科カヅキはいまやアレクサンダーにとって焦燥や怒り、羨望を感じさせるだけの存在ではなかった。それは仁科カヅキにとってもまた、同じことが言えると、アレクサンダーは確固たる自信を抱いている。
「……」
 そんな仁科カヅキは、画面の中で踊り磨き抜いた技を繰り出しているアレクサンダーに魅入っていた。つい最近の映像だ。この場にカヅキはいなかった。シュワルツローズの下位クラスに所属しているらしい、名も知らぬスタァにもなれない相手を完膚なきまでに叩き潰した。そのダンスバトルの映像だ。顔もよく覚えていない相手をアレクサンダーが未だに記憶の僅かながらも認識しているのは、その相手が仁科カヅキを侮辱する一言を放ったからだった。実力もないくせにカヅキのパフォーマンスを馬鹿にするような輩は許せなかった。対等な位置に立たってこそ、語る権利を得るのだ。結局アレクサンダーの一睨みで蜘蛛の子を散らしていった彼らは、その姿を二度と見かけることはなかった。
 しかし一体どこからそんなものを。そう出かけた言葉を飲み込んだのは、カヅキの横顔が真剣そのものだったからだ。アレクサンダーの一挙一動を琥珀色の瞳が追いかける。よくよく見ればヘッドフォンをしているのだから足音どころか扉の開閉すら聞こえていなかったのだろう。クライマックスに差し掛かる動画がアレクサンダーだけを映し出す。ドラゴンに飲み込まれたバトルの結果が誰の目にも明らかになり、そしてやっとカヅキはアレクサンダーの存在に気がついたのだった。
「どっからそんなもん見つけてきたんだ」
「ヒロが教えてくれたんだ」
 ほら、とカヅキが示したのは多くに普及しているコミュニケーションアプリの画面だった。「一月みて!これ!」というメッセージと動画のURLと思われるアドレスが並んでいる。他愛のない会話の中に、サムネイルがぽつんと浮いて見える。内容を読むのはプライバシーの問題だが、その文字に、たった二つの字に目を奪われた。かっこよかったぜ! なんて賞賛も耳を通り抜けていく。似つかわしいようで違和感の一つもない。「仁科、一月」
「? どした?」
「漢字ってのは、どうしてこう…いい、なんでもねえ」
 首を傾げながらもそれ以上は突っ込んでこないことをいいことに、一瞬にして吹きこぼれそうになったなにかを飲み込んでいるアレクサンダーの前で、あっさりとカヅキはスマホの画面を落とし、カーゴパンツに仕舞ってしまった。
 アレクサンダーは仁科カヅキについて知らないことばかりだ。初めて言葉を交わしてから数ヶ月なのだから当然といえば当然なのだが、腹の中をぐるぐると渦巻くものは少なからずあった。これが魅せられたが故の感情なのか、それとも他のものに起因することなのか、アレクサンダーは結論を出しかねている。出せないでいる、というべきかもしれない。認めた瞬間にもきっと己の中で何かが変わる。予感は確信に近く、手を伸ばすことを選ばないままここまてきていた。
「……なんだよ」
 視線を感じ、その大元の表情を捉え咄嗟に出た声の、不貞腐れたことといったら我ながら眉間に深い皺を刻み込むほどだった。まるで裏表のない、心底から浮かべているような喜びと誇らしさを混ぜた笑み。見ているこちらが恥ずかしくなる、甘さもまた多分に含まれていることは間違いない。本人がそれを意識しているのかーー否、確実に無意識だ。良くも悪くも飾らない真っ直ぐな表現だからこそ、仁科カヅキは人の心を打つのだ。
「お前ってさ、本当に格好いいよな」
「……はあ?」
 はたして、その唇から発せられた言葉はアレクサンダーの予想を大幅に裏切るものだった。つい数秒前まで開かれていてらしい動画の枠内には、プログラムが割り出したおすすめの動画が一覧となっている。よく見てみればその殆どが、アレクサンダーの登場するものだ。ストリートでの対決、録画の許可されたバトル、その相手は多岐に渡る。それが何だとアレクサンダーが言葉を継ぐ前に、カヅキは次再生する動画ファイルを決めていた。流れ出す音楽と、多少荒いものの滑り出すようにリズムに乗ってパフォーマンスを繰り出すのは中心に映されたアレクサンダーだ。一体どこからこんな映像が流出したのか、シュヴァルツローズ内でも好き勝手しているとはいえ、少々疑問を呈したくなる。クラス関係なく単なる道具、駒ならば扱いも粗雑になるのかもしれない。
 対して、仁科カヅキはそんなアレクサンダーの様子に気付くことなく、スマートフォンに視線を落とす。ショウの間は不敵な笑みを浮かべ、褐色の逞しい身体を惜しみなく見せる男を一心に追っている。
「初めて会った時はほら……いろいろあって、そんな余裕なかったからさ。こうやってみると、お前のダンスも、お前も、大人っぽいしキレがあってすげえかっこいいんだなって……アレクサンダー?」
 どうしたんだ、頭上から歌声をBGMにカヅキの声が降り注ぐ。「うるせえ」
「アレクサンダー…?」
 手で覆った顔が熱いのを風呂のせいにするしか、アレクサンダーには残された道はない。尚も賞賛の言葉を連ねようとする無自覚の太陽を一体どうしてくれようか。ソファの背もたれに倚り懸かりながら、まずは未だアレクサンダーのプリズムショーを映し続けるスマートフォンを奪うべく手を伸ばすことにしたのだった。

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