今日は離れてやらない

 最悪だ。
 黒川冷はそう呟き、咥えたタバコのフィルターを噛んだ。火をつけていないのは、目の前にいるのがまだ未成年で、かつ現役のプリズムスタァだと思い出したからだ。どんなにガタイがよかろうとも、大人びた顔をしていても、まだ十九。そして口を尖らせ、カウンターについた肘の上に顎を乗せて、隣に腰掛ける年下の男に胡乱げな視線を向けている。対して、そんな黒川の隣でノンアルコールのカクテルを舐めている男――大和アレクサンダーは幸せを一つ確実に逃がしているだろう深い深い溜息を吐いた。
「喧嘩した。最悪だよ、明日が何の日か知ってるだろ」
「あんたの誕生日」
「そう! なのに今朝、喧嘩したんだ。信じられない!」
「そりゃあ残念というか、なんていうか」
 十数年前のウイスキーが半ほどまで注がれたグラスの中で、融けて角の落ちた氷がカランと鳴る。黒川はその琥珀色の酒をぐっと煽り、グラスを支える手とは逆の握りこぶしをカウンターに叩きつけた。一息にアルコールを入れたせいでくらりと彼は身体を倒し、そして垂れた髪の隙間から、なんとも恨めしげな視線を投げてきた。普段の落ち着きなど投げ捨ててにこやかな笑みも剥ぎ取り、行きつけの店に行けば女に愛想を振りまく男と同一人物だとは思えない。これが十も年上の、アレクサンダーの憧れの、素の姿だといえば聞こえはいいが、実際は面倒くさい大人である。
「おい」
 もう何杯目になるかわからない甘いカクテルは止め、アイスコーヒーをとカウンターの中に声をかけると、「おい」ドスの効いた低い声が再びアレクサンダーを呼んだ。返事をしないのは、憧れは偶像だと、目の前にいる男が自身の手で打ち砕いた恨みを忘れていないからだ。それでも尊敬していることに変わりはなく、だからこそこの複雑な思いをどう処理したものか、アレクサンダーは悩んでいた。大人気なくて、手も足も早くてでも格好いいあのプリズムショーが忘れられない。
「おい、アレクサンダー」
「……なんスか」
「言いたいことは山程あるんだけどな、とりあえずお前、サーシャって何」
 ああ面倒くさい。酒臭い息を近付けてくる大人を押しのけようとしても、酔っ払いゆえに力の加減を知らないせいで黒川はぐいぐいとむしろ寄ってくる。わざと嫌がらせでもしているのかと勘繰りたくなる行動に、アレクサンダーはあからさまに顔を顰めてみせたが、効果はまったくない。
 サーシャ。それは、つい十八時間ほど前に、ここにはいない件の人物が口にした、アレクサンダーの愛称の一つである。

***

 高架下での初接触から三年、カヅキは二十一となり、アレクサンダーも成人まで残り一年を切った。カヅキは二十歳を迎えてから酒の席に呼ばれることも増え、そして目の前の男と杯を交わすこともでき、その中で強くも弱くもないということを悟ったらしい。典型的な日本人だ。彼は赤くこそならないが、ある程度飲むと眠くなるタイプだった。
 何故それをアレクサンダーが知っているのかといえば、カヅキに時折付き合えと居酒屋やこういったバーに連れて行かれるからだ。居酒屋ならまだいい、食べるものも、飲むものもある。バーでは腹は膨れない。無論、未成年であるアレクサンダーへの酒類の提供はしないよう店側にも頼んでのことだ。そして、カヅキは三度に一度は酔い潰れる。初めて行った時は、飲まないアレクサンダーでも結構なハイペースでジョッキを開けていたからてっきり強いのだと思い、止めなかった。そうしたら、その二週間ほど前にあったプリズムショーの大会の話をしていたはずなのに、カヅキは突然黙り込んだのだ。ぎょっとしたアレクサンダーがカヅキを揺さぶると、彼はそれはもう気持ちよさそうに寝息を立てていた。
 そこで店に放置して帰ってしまうほどアレクサンダーが情のない男でなかったのが、カヅキにとっては幸いし、アレクサンダーにとっては不幸なことだったのだ。会計は手間賃だとカヅキの財布から出し、一度だけ訪れたことのある黒川の部屋をタクシーで目指した。カヅキが黒川と交際しており、恒常的にそこに入り浸っていることを知っていたからだ。高架下で踊った後に、「俺男と付き合ってるんだ、どうせいつかバレると思うから先に言っとく」なんてカミングアウトから、その相手があの黒川冷と知らされ、二重、いやもしかしたら三重のショックを受けたことも、今では懐かしい。それにしてもふにゃふにゃのぐだくだになったカヅキを背負い、タクシーを呼び止め、憧れの男の住む部屋の場所を告げるなんて全く意味がわからないと、アレクサンダーは当時は鬼のような表情をしていたのだろう。カヅキの財布から諭吉を引っ張り出し、釣りもいらねえと降りた時の運転手はあからさまにほっとしていた。
 そうやって、黒川のところまで送り届けてしまったからいけなかったのだ。そして、二度目三度目と警戒しつつカヅキに連れまわされたアレクサンダーが、そのときはしっかりとした足取りのカヅキと別れられたから、いけなかったのだ。定期的にカヅキは酔い潰れ、その度にアレクサンダーが黒川のところまで送り届けるーーという流れがいつの間にか出来上がってしまっていた。首を傾げても、カヅキに飲みすぎんなと釘を刺しても、無くなる気配がない。他の誰に相談しても、カヅキさんが酔い潰れるなんてと相手にしてもらえない。あの、速水ヒロと神浜コウジにですら、だ。一体どういうことなんだ。
 思う反面、そんな姿を見せるのが自分と、おそらくは黒川だけなのだろうということにちょっとした喜びを抱いてもいた。お前は仁科カヅキの特別なんだぞ、そう言われているような気がした。それが、実のところアレクサンダーにしか見せていないのだと知ったときは、本当にどうしてやろうかと思ったものだ。
 その日も、アレクサンダーはカヅキを背負って小洒落たマンションのインターホンを鳴らした。部屋の明かりがついているのは見えていたから、黒川はまだ起きている。十秒ほどして通話が繋がると、「入って」と何度目か知れない黒川の感情の読み取りにくい指示があった。エレベーターで上がって九階、角の部屋。完全に寝たのか、全く力の入らない人間を背負うのは案外難しいもので、ずり落ちそうになるのを抱え直し、服越しにも分かる高い体温にじわりと汗が滲む。玄関に着いてインターホンを再度鳴らすと、黒川はすぐに現れた。シャワー上がりなのか、髪が濡れたままだ。
「いつもごめんね、ありがとう」
「いえ、大丈夫です」
 カヅキのクツを脱がせ、すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てている彼を黒川に引き渡す。アレクサンダーと違い身長差が十センチほどしかないせいか、抱えるのは大変そうだといつ見ても心配になる。実際は要らぬ世話だ。ひょいとカヅキを抱いた黒川は、真っ直ぐに扉を開けたままにしていた寝室へと向かう。その足取りに不安はなく、任せて帰ろうとしたアレクサンダーだったが、「そうだ」そのたった一言に呼び止められた。
「タクシーは帰らせたんだろ? 送ってくよ」
 待ってて、と有無を言わさぬ彼に、時折そうやってアレクサンダーは捕まった。正直に言えば、黒川と話すのも、カヅキと話すのも、楽しいのだ。特にシュワルツローズにいた頃はストリート系のことを話す相手もいないに等しく、そこに現れた憧れと、ライバルだ。和解とまではいかないが、相互理解が進むうちに、話すことも増えていったのはごく自然なことだった。
キーを手慰みに転がしながらエレベーターホールまでの廊下を歩く。頭一つ低いところにある彼は煙草と酒のせいで背は伸びなかったなあとぼやいていたが、それでもダンスはやめていないらしく、身体はしっかりと鍛えられている。どこで踊っているのかとか、どんな曲が好きかとか、そういう話をするのも聞くのも、アレクサンダーの知らない世界に触れることも少なくなく、楽しい。そこに、仁科カヅキの話が入らなければ。
 わかっていたはずなのに、話を振った。それはアレクサンダーの失敗だった。思い込んでいたのだ、カヅキを甘やかしてやまない目の前の男には、カヅキも自分に見せる以上に安らいだ姿を見せているのだろうと。その日は発売を待っていたCDがやっとリリースされたこともあって、機嫌が良くて、気が抜けていたとしか言いようがない。カヅキも好きだといったその曲で今度踊ってみようぜ、なんて誘ってくると話していたことを告げて、ふと気になったのだ。
「黒川さんも大変じゃないすか、家で酒飲んでたらあいつ毎回あんな感じでしょう」
「……いや? そんなこと、ないよ」
「? じゃあもっと甘ったれてるとかですか」
 ストリート系のカリスマも惚れた相手の前じゃ形無しか。女相手だったらチャラチャラしやがってとイラついただろうものの、相手があの黒川冷では何も言うことができない。たとえそれが、男でも。
 アレクサンダーは気付くべきだった。黒川の声のトーンがわずかに下がったこと、一瞬、その表情が消えたことに。
「カヅキは俺の前だとどうしても背伸びするんだ。年齢の差とか、立場とかもあるんだろうね。並ぶにふさわしいとか、そんなこと考えなくていいのにさ」
「はあ……」
 あんな酔い潰れるなんて、俺の前ではないよ。信号待ちで止まった車の窓を眺める黒川の表情はうかがえないままだったものの、ため息混じりのそれが彼にとって何か引っかかりのあるものであることには間違いがなかった。そりゃあそうだ、恋人が他の男の前であろうことか酔い潰れるなんて無防備な姿をさらしているのだ。それも一度ならず複数回。アレクサンダーのせいではないとはいえ、申し訳なさすら湧いてくる。そして、黒川から漂う雰囲気にひやりとさせられて、なんだってそんな面倒なと怒りに似たものも。
 それでも黒川は大人だった。
「つまり君らの仲の良さに妬いてるってこと。……さ、着いたよ」
「あ、あざす」
 そう締めて、彼は車を駐車場に滑り込ませた。もう何度も送ってもらったために、ナビすらも起動していない。深夜を回ろうとした頃、エンタランスに人影はない。足を下ろしたアレクサンダーの背に投げかけられる言葉もまた、年上の余裕を持ったものだ。
「これからも迷惑かけるかもしれないけど、カヅキと付き合ってやってよ。君みたいな相手が必要なんだ、きっと」
「はい、……まあ、もうちょい酒との付き合いは考えろって言っといて下さい」
「はは、了解。じゃあおやすみ、またね」
 ハンドルに寄りかかり、ひらひらと手を振る彼に見送られ、その姿が見えなくなってやっと息を吐いた。知らずのうちに力が入っていたらしい。
 カヅキとの付き合いを無くすつもりはない。公式、非公式にダンスバトルを繰り返し、互いに満足のいく決着は未だつかないまま数年が経った。今ではストリート系の顔とされる二人だ。きっとシュワルツローズやエーデルローズといった枠を超えたこんな関係はずっと続いていくのだろう。それをアレクサンダーは気に入っている。
 しかしそれには黒川という男の存在が切り離せず、これからも頭痛の種となるのではないか――アレクサンダーの予想は、確かに的中していたのだ。

***

「サーシャぁ、まだのむー……」
「アホか寝てろ」
 十八時間前。アレクサンダーは仁科カヅキを背負い、彼の荷物を腕にかけて黒川の部屋をずんずんと進んでいた。カヅキは八割がた寝ているくせに、思い出したように「のむー」とアレクサンダーを叩いた。これ以上酔っ払いの世話なんかしていられるかというのが正直なところで、そう思いつつ毎度のようにカヅキの面倒を見るのがアレクサンダーの情の深い証拠だ。
 広いベッドにぐでんぐでんの男を投げ捨て、寝室の入り口で固まっている家主に「それじゃ失礼します」と一言告げて、アレクサンダーは部屋を後にした。捕まる前に逃げろ。それがアレクサンダーの決めたことだ。これは決して逃げではない、ストレスを避けているだけだ。何が悲しくて憧れの存在やライバルの性事情まで聞かされなければならんのだ。黒川冷が絶倫の上に遅漏だって知りたくなかった。
 帰宅するなりベッドに沈み込んだアレクサンダーは、翌日の昼過ぎ、一つのメールを受信した。曰く、カヅキがアレクサンダーのものと思われるタオルを持ったままだったから返したい、プリズムストーンの閉店ごろに来てほしいと。確かに昨日、貸した覚えがある。急ぎはしないが、ついでに黒川と話ができるならと、二つ返事で承諾し、彼を訪ねたのが二時間前のことだ。
「俺はさ、外で飲み過ぎるなとか、羽目を外しすぎないほうがいいとか、当たり前のことを言ったんだよ。あと君に迷惑かけ通しなのもどうなんだって」
 そうしたらカヅキはアレクサンダーがどんなにいい奴なのか、酒のことだってアレクサンダーがいいと言っているだとか、力説したらしい。ありがたい話だがその場では逆効果でしかない。聞いてもいないのに酒が入った途端に黒川は目を据わらせて語り始めたのだ。カヅキと喧嘩した、その経緯を。
「ほんっと、なんで俺の前で他の男の名前出すかなあの子は……お前だって、最近は毎回だろカヅキが潰れるの。相手してくれんのはありがたいけど」
「面倒は面倒ですけど、慣れたっつーか」
 迷惑してるんじゃないか、社交辞令なんじゃないかという黒川の言葉にカヅキは「俺の大事なダチがそんな小さいやつだと思ってるんですか!? ばかにすんな!」と言い切ったらしい。どこからそんな信頼が生まれてくるのだろう。尻がむずむずする。しかし確かにアレクサンダーはそこまで気にしていなかった。それよりも大人の黒川の話に付き合うほうがよっぽど面倒だと思う節すらある。口にはしなかったのはどうやら正解だったらしい。カヅキのあんな声聞いたことなかった、「サーシャって何だよ今も名前で呼んでって言わないと呼んでくれないくせに、なんなんだよ」途端にしょぼくれる黒川に、要は嫉妬されているのだ。サーシャという愛称はアレクサンダーから言ったわけでもないし、カヅキが勝手に呼んでいるだけだ。やめろと言っても聞かないから放っておいている。名前で呼ぶとか呼ばないとか知ったことか。お前らの痴話喧嘩に巻き込むなとカヅキの耳を引っ張ってやりたい、しかし彼も黒川もそういったことを無意識のうちにやるのだから、どうしようもない。いくらアレクサンダーが気を遣っても、それを一周で叩き壊すのが主に仁科カヅキという男だった。
「挙句朝ごはんも食べずに大学行っちゃうし、昼のメールもないし」
 昼のメールって何だ。突っ込まないでおくに限るとアレクサンダーは触れずにいたのに黒川はほら、とスマショを見せてくる。カヅキの自撮りと、今日はアレクサンダーと飲んできます!と踊りだしそうな顔文字が並んでいる。これは一昨日の、こっちは一昨々日。毎日そんなやり取りをしてるなんて、知りたくなかった。バカップルと呟いたアレクサンダーに、バーテンが深く頷いていた。
「昨日はカヅキさんで、今日は黒川さん。アレクサンダーくん人気者ですねえ」
「勘弁して欲しい」
「ははは」
「なに、昨日もここだったの?」
 なにを話していたかなんて、言うまでもなく目の前で管を巻く男のことだ。特に昨日は、一日オフだった――カヅキに言わせるともぎ取ったオフに、同じく午後からはフリーだったアレクサンダーはずっと付き合わされた。買い物に行くという彼に引っ張り回された、それはいい、カヅキの好むものはどこかアレクサンダーの琴線にも触れることが多い。その中の購入したものを彼はずっと気にしていた。目の前にいる男に関わるものだからだ。
 それを知らず、ほらみろかわいいだろ、カヅキの寝顔の写真まで見せてくる大人にいい加減アレクサンダーもげんなりとした顔を隠さない。酔っ払いにしても浮き沈みが激しすぎる。疲れているのかそれともそういうタチなのか。奢りだと出された淡い緑のカクテルは、すっきりとしたミントの香りが際立っていた。時刻は二十二時半を回った頃、空になったグラスをカウンターに押しやると、アレクサンダーはスツールから腰を上げた。 「便所?」
「いや、そろそろ行くんで」
「えーまだ全然君に言いたいこと言えてないんだけど!」
「用事あるっつったじゃないスか」
「なに未成年がこんな時間からどこ行くんだい」
 褒められたことではないが、アレクサンダーももう十九だ。補導されることもない。明日は彼自身も言っていたように黒川冷の誕生日だ。ストリートの礎とも呼べる、元祖カリスマ、今では伝説の男。数少ない公表されているプロフィールの一つを皆で祝おうと、アレクサンダーは高架下やら地元やらのストリートの知り合いから黒川冷のDVDオールナイト上映に誘われていたのだった。好きな時間に来て好きな時間に帰る、ステージもある店を用意したというから踊ることもできるだろう。
 面映ゆいと黒川は笑い、ふと考え込むように口元に手を運んだ。まるで煙草を指の間に挟んでいるようなそれは、彼自身も感じたのだろう。しかし、黒川はアレクサンダーと共にいるときは決して煙草を吸わない。カヅキの前でもそうだというのだから、二人が現役である限り黒川はそうするつもりなのだろう。百害あって一利なし、やめられないんだけどね。苦く笑っていた姿を思い出す。
「……カヅキも行くのかな」
「誘ったけど行かねーって」
 声をかけた時、そんな返事だろうと予想の範囲内だった。今だって、カヅキは黒川の帰りを待っているに違いない。いつだってカヅキは黒川に惚れているというのに、なんだってわからないのかアレクサンダーは不思議で仕方がない。
「お前にはわかんないよ、モテる男に惚れたやつの気持ちなんて」
「はあ」
「カヅキはほんっとうにモテるんだよ……今は俺のこと一番に見てくれてるけど、寄ってくる虫の誰かに惹かれたっておかしくないだろ」
 そうあるべきだと云うやつもいるのだと、唇を噛む。どこかで同じようなことを聞いた覚えがある。昨日だ、そうだ、カヅキも言っていた。「クーさんもいい年だし結婚とか、さあ」俺じゃできないんだよな、冗談めかして笑う姿は儘ならない世の中に失望すらしているようで、アレクサンダーは言葉を継げなかった。
「……なあ、それ俺も行く」
「は?」
「いいだろ、本人登場。面白そうじゃん」
 本気で言っているのだろうか。今、つい数秒前に恋人のカヅキは行かないと言ったばかりなのに。それを放置して、どこの誰とも知らない集まりにわざわざ顔を出しに行くなどと、戯れ言でしかない。恋愛なんて甘ったるくて恥ずかしいことで、アレクサンダー自身は縁がないものだと今も思っているが、カヅキが黒川に向けるものも、黒川がカヅキに向けるものも、決して馬鹿にされるべきものでも、蔑ろにされていいものではないということも、わかっている。二人が共にいることで幸せであるのは間違いがないのだ。だからアレクサンダーは肯定する以外の選択肢を持たない。男同士、なにが悪い。アレクサンダーを巻き込むのをそろそろやめて欲しいだけだ。
 だから、黒川がただいっときの嫉妬や臍を曲げただけでそれを蹴り飛ばそうとするのを、カヅキの想いから目を逸らそうとするのが我慢ならなかった。
 腕を掴んで付いてこようとする男を押し留め、アレクサンダーは小さな箱をその手に押し込んだ。
「なにこれ」
 封は切られている。呟いた黒川が中身を引き出すと、小さなデジタルオーディオプレイヤーが姿を現した。黒をベースに赤いラインが入ったものは、いつかの黒川の衣装を彷彿とさせる。電源を入れると二つのデータが表示される。一つは有名な曲だ。バースデーソングとしても歌われるもので、もう一つは題がない。
「あんたのために歌った。明日渡しに行くつもりだったが気が変わった」
「へえ、誕生日プレゼント? 今をときめくストリートの暴君からバースデーソングなんて嬉しいな。ありがと」
 嫌味らしい言葉のではあるが、小さな機械を掲げて見せる黒川は柔らかく笑っていた。カヅキと付き合い始めてから、誕生日を祝われることが当たり前になったのだと去年聞いた言葉は、それまでどうしていたのかと聞かせない空気を含んでいた。アレクサンダーもまた、そうだった。仁科カヅキと出会い、そういう記念日や他愛のない日々を愛おしく思うことが増えた。周りを暖かな気持ちにさせる男だ。確かにモテるだろう、そんな気のないアレクサンダーも、確かにカヅキに惹かれている。
 バーテンに聞かせてくれと強請られている黒川を尻目に、今度こそ立ち去ろうとするアレクサンダーの腕は、しかし再び黒川に捉えられてしまった。
「っておい待てよ、これとそれとは別だろ」
「いいからあんたはさっさとそれを聞け、話はそれからだ」
「逃げるなよ」
「逃げねえから」
 敬語すら最後は投げ打った。顔を顰めた男はイヤホンを耳に嵌め込むと流れ出すメロディに目を閉じる。
 この企みに乗ったのは、アレクサンダーがこのバーで出会った知り合い達だ。黒川のことを知り、尚且つカヅキやアレクサンダーのことも知っている。もうすぐ黒川の誕生日なのだと話題に上った時、ならばバースデーソングでもと盛り上がり、とんとん拍子で収録まで終わっていた。バイオリンとピアノ、セミプロなだけあって伴奏も文句なしの、アレクサンダー渾身の一曲だ。それが入った、世界でたった一つのプレイヤーだ。このことは、カヅキにも告げていない。
 時間にして四分ほど、曲が終わったのだろう、黒川がゆっくりと瞼を持ち上げた。氷が溶けて殆ど水となったグラスを傾け、「ほんっといい声してるよ、お前」
「どうも」
「ありがとな、最高だよ」
 先程とはトーンの違う言葉に、十分すぎるとアレクサンダーは頷いた。ずっと憧れて尊敬していた人物に歌を送る機会があるなんて、昔は思ってもいなかった。
「このバイオリンと、……、? まだあるのか?」
 空白の数秒、そして騒めきと聞きなれた声が黒川の鼓膜を震わせる。ついさっきまで文句をだらだらと述べていた、かわいくて愛しくてたまらない相手の声だ。聞き間違えるはずもない。
『…ぃ、聞いてんのかよアレクサンダー!』
『聞いてるっつーの』
『じゃあさっき俺がなんて言ったか言ってみろよ』
『どうせ黒川さんがかっこいいとかそういうこったろ』
『ちげーし! いやかっこいいけど、そうじゃねえし聞いてなかったなやっぱり』
 ぽんぽんと跳ねるボールのように行き交う応酬、親しくありながらそれでいて馴れ馴れしくはない。こんなに砕けた、というより口の悪いカヅキの声を聞いたことがあっただろうか。思い出してもずっと大人びた子供の姿しか記憶に見つからない。歳が近く、同じストリート系の、現役のプリズムスタァであるアレクサンダー相手だからこその気安さなのか。もやもやとしたものが広がるなか、再生は続き、ふと彼の声が静かになる。
『……クーさん、喜んでくれっかな』
『お前があれだけ時間かけて探して選んで決めたんだ、あの人が喜ばねえわけがねえ』
『そうだけど、だけど、さ』
 やっぱり不安なんだよ、あの人はなんだかんだいって大人だし、並んで立って似合う男になりたくてどんだけ頑張っても年の差は埋められない。続くアレクサンダーの声がらしくないと一蹴するものの、それからしばらくカヅキの声に勢いは欠けていた。
「なに、これ」
 トラックは淡々と進んでいく。二十分ほどもすれば、黒川は聴覚以外の感覚をシャットダウンすべく、目を閉じぴくりとも動かなくなっていた。表示される再生時間を見てアレクサンダーはひっそりと息を吐いた。ストリート系の集まりに辿り着く頃には日付が変わってしまいそうだ。しかし、そろそろだ。
 酒が進んだカヅキの呂律が怪しくなり、このカウンターテーブルに突っ伏して、こんなに切なさを滲み出せたのかと驚くようなそれで、『れいさんが、すき、すき、どうしよう、やばいんだ俺、しっかりしなきゃいけないのに甘えたいって思っちまうしもっと一緒にいたいし、たくさんもらってるのにもっともっとって、好きなんだ、れいさんがすき――』
「マスターごめんつけといて、明日、いや明後日払いに来るから!」
 スツールを蹴り倒す勢いで黒川は席を立ち、その数秒後にはもうそこに残り香が漂うのみとなっていた。
「なにを聞かせたんです?」
「昨日のカヅキのあれを」
「ああ、なるほど」
 それは、アレクサンダーの思い付きだった。いい加減、カヅキを送り届けた時になにを話していたんだと根掘り葉掘り聞かれるのもうんざりしていたところで、ならばいっそ話していることを聞かせてしまえと考えたのだ。いくら「あんたの話だ」と言っても聞きたがる黒川の必死さを言ってやると、途端に口を尖らせる。
「だって好きなんだもん……ここにいるのは彼に恋するただの一人の男なんだよ」
 黒川冷も人間だった。いつかお前も恋をすればわかるよ、なんて言われても実感はなく、決して悪いものではないとわかっていても手を出そうとはまだ思えない。だからカヅキと黒川をそばで眺めているだけにしておくのだ。
 その不安を拭い去るつもりではなく、単純になにを話しているか聞かせてやろうとスマホの録音アプリを立ち上げたのは、本当に思い付きだった。カヅキの本音らしい言葉が撮れたのはたまたまで、しかしだからこそそういう運命だったのだろう。迷わずデータを端末に押し込んだ。カヅキの黒川への言えない言葉、ノーカット編だ。
「どうぞ、アレクサンダーくん」
「さっきからいいのかよ」
「黒川さんにつけておきますよ」
 真っ赤なカクテルはやはりアルコールはなく、甘く苦いそれを口にして、アレクサンダーは夜の街を駆け抜けているであろう男にグラスを掲げた。
「Happy Birthday,バカップルめ」



 ドアを蹴り破る勢いで店を飛び出し、全力で走ろうと思ったら予想以上に飲み過ぎていたらしく足に力が入らなかった。タクシーを捕まえて最速でと住所を告げて。
 知った道を通り過ぎる中でもう一度あのデータを聞きながら、最後の恋人のそれにぎゅっと胸を鷲掴みにされる。好きだ、好きだよ、どれだけ告げても足りないくらいに彼が愛おしい。
釣りはいらないと車を飛ばしてくれた運転手に告げてマンションの中を駆け抜けた。彼の待つ部屋へ。
 こういう時に靴がすんなり脱げなかったり、足が縺れたり、とにかくばたばたと明かりのついているリビングに飛び込んだ。レポートをやっていたのだろう、パソコンとノートの前に座っていた彼が立ち上がる。「クーさん、おかえりなさ」遮るように抱き寄せると石鹸のいい匂いがした。同じ匂いがすることにもすっかり慣れてしまった。
「好きだ、俺も大好きだよカヅキくん」
「っ、俺、も、好きです……っ」
 抱き返される喜びは彼が教えてくれたことだ。顔を上げた彼の唇にキスをして、離れたらちょうどかちりと時計が十二時を告げた。今日は特別な日だ。俺にとっても、きっと彼にとっても。だから少し強引になっても許されるはずで、だから聞かせてもらおう、ちゃんと、彼の口から彼の言葉で。不安も恐怖も全部拭い去って、心からの笑みを見せてほしい。それと、他の男にそれを聞かせたのはやっぱり許し難いからお仕置きも。
「誕生日、おめでとうございます、冷さん」
 でもまあ、今日は、それは置いておいて、どこかそわそわとしている彼の話を聞くことから始めよう。

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