帰る場所


 彼はもう、俺のことなど忘れてしまったかもしれない。
 世界中で日本人が生きている。こんなところにも、あんなところにも。それを訪ねていく番組で、たまたまそこに逗留していたという彼が取材を受けていた。その声がテレビから飛び出してきたとき、心臓が止まるかと思った。忘れもしないといいながら、久しく聞いたそれがあまりにも耳馴染みに遠かったのだ。人は、音から忘れていく。それは本当なのだとまさか体験する羽目になるとは誰が予想しただろうか。
 まだ人々の記憶から消えるには日が浅い、男子プリズムショー界に旋風を巻き起こしたOver The Rainbowの一人、仁科カヅキ。トレードマークだった銀髪は地毛なのだろう、真っ黒になって、肌も当時から焼けたように見える。もう五年も会っていなかった。付き合って一年で、彼は黒川の元から飛び立ってしまった。やりたいことがあるのだと、プリズムショーをみんなに知って欲しい、そのきらめきを、感じてほしい。いつか、自分がそうだったように。瞳を輝かせて、己のやりたい道を見つけた彼の背を押すことしか黒川には許されていなかった。帰国する時は連絡してね、ゲートの向こうに消えていく彼を、ぐんぐんと高く昇りついには見えなくなった飛行機を見送って、黒川は己のあるべき場所へと戻って行ったのだ。それからしばらくはカヅキからの連絡はあったし、時折絵葉書も届いた。しかし、今どこでどうしているかも、もうわからない。ある時を境にぱったりと連絡が途絶えてしまったのである。黒川からコンタクトを取る術はない。未練がましく彼を見送ったときから携帯の電話番号もメールアドレスも変えないまま、時は流れていた。
「元気そうだな」
 相変わらずの快活な笑顔で、バーニング! と拳を突き上げる姿。一つだけだったが見せてくれたプリズムジャンプも、以前よりもずっとフリーダムで輝きが増しているようだった。きっと彼は今、とても満たされている。夢を与え、夢を叶え。他のことを考える隙などなさそうで、連絡が絶えたのは、きっとそういうことなのだ。その姿を見られただけで、彼がちゃんと生きていると知って、目頭が熱くなる。
「歳はとりたくないもんだね、……カヅキくん、」
 君に会いたい。俺は今もまだ君が好きだよ。出せない手紙の返事はもう何十枚も溜まってしまったよ。君が置いていったものは全部大事にしまってあるよ。ずっと君が帰ってくるのを待っている。
 その番組は店の女の子たちも見たらしく、翌日はその話で持ちきりだった。カヅキが出るという情報は出回っていなかったようだが、今この時代は見逃した番組も配信される。それで彼がどうしているのかを垣間見た人は多いようだった。個人的に付き合いがあると知っている面々からは、あんな番組に出るくらいだから帰国の予定でもあるのかと聞かれたり、なぜ教えてくれなかったのかとむくれられたり。知らなかったし、そんな予定も知らない。なぜかそんなことをは言えずに、はぐらかすばかりで少し疲れてしまった。
 重たい体を引きずって、プリズムストーンから少し離れたマンションに帰る。オートロックのエントランス、越してきた頃は綺麗だったエレベーターも最近では少しばかり汚れてきて、外の空気の流れ込む廊下を、温かな家庭の光を漏らす周りの建物を眺めながら歩いた。キーケースはいつか彼がくれたものだ。黒い革は手に馴染み、艶がでてきて柔らかくなった。中張は赤、「クーさんは赤いイメージ」なんて笑っていた顔が今もすぐに思い出せる。しかし、鍵を捻った瞬間、黒川の顔は強張った。
 手応えが、ない。
 家を出るときは確かに施錠したはずだ。鍵はピンシリンダー型だが、ピッキング対策の施されたものだ。しかし、それも無敵ではないということは分かっている。オートロックなんて潜り込むのは意外と簡単で、警戒に頭の中がガンガンと音を立てる。
 静かに、ドアを開けた。しんと静まり返った部屋は、暗い中で見える限り。荒らされている様子はない。数メートルの廊下の向こうのリビングも明かりは消えている。ただ三和土にくたくたの靴が脱ぎ捨てられ、中に誰かがいるのは間違いがなかった。すぐに通報できるように携帯を握りしめ、足音を殺しながら部屋の奥へと入っていく。まったく、自分の住む部屋だというのになんでこんなこと。金目のものもないに等しい。大事なものは、黒川にとっては価値があるけれど世間から見たらどうだろう。きっと、この部屋で高価なものを数えたらテレビなどの家電以外には工具類ばかりだ。
 リビングを一回りして、誰もいないことを確かめて。キッチン、人の影はない。冷蔵庫は相変わらず低い唸り声をあげていて、空き巣が入ったわけではないとこの時点で気が付いた。ほっと息を吐いて、明かりをつけて、そして、寝室の扉が薄く開いていることにやっと気がついた。
「誰だよ、部屋間違えてんじゃねーだろうな」
 愚痴る余裕も出てきたのだろう。ドアに手をかけ、押し開こうとして何かに引っかかる。扉の導線に何か置いてある。力を込めればそれはすぐに動き、何かが倒れた音がした。
 ベッドの毛布の下に、何かが丸まっている。すっぽりと被っているのか顔は見えない。規則正しく上下するそれが眠っているのだと黒川に教えてくる。人のベッドで気持ちよさそうに、そんなことを許したのは。
「……ああ、……ああ……」
 彼、一人だった。ふわふわと揺れる黒髪、鼻の上まで引き上げた毛布。小柄な身体を丸めて眠っている。一体どこから来たのだろう。連絡くれって言ったのに。大荷物だって予想するに難くないから、空港まで迎えに行ったのに。先程黒川が強引に扉を開けたときに倒れたのはカヅキのバックパックだ。
 起こさないように髪を撫でる。鼻の頭を擽ると、むずむずするのか少し顔がくしゃりとなった。カサついた?はさすがに仕方がない。
 入ったときとはまったく異なり、静かに寝室を後にした。食事を作ろう。自分のためだけでなく、カヅキのために。今までどうしていたのかとか、聞きたいことは山ほどある。次はどこへ行くのか、すぐにまた出発するのか。けれど今はおやすみ、帰ってきた君。
「おかえり、カヅキくん」

 食事ができたよ、ごはんにしようと起こしに行ったら、寝惚け眼を擦りながら彼はベッドから這い出てきた。ぺたぺたと足音が付いてくる。角を挟んで隣り合わせに座って、頂きますと一口食べたカヅキは、途端に目を輝かせて箸のスピードがあがったようだった。この数年のうちに腕が上がった自信はあるが、こうして目の当たりにすると喜びはひとしおだ。
 携帯は、いくつ目かの国で壊してしまったらしい。それからシムフリーのものを購入してはいたものの、データにアクセスできず、連絡もできないまま。一度日本に帰ることも考えたけれど、なくても生きていけるとわかってからは夢を叶えてからにしようと世界を飛び回っていたらしい。出せなかった手紙があるんです、カヅキはそう言っていた。持ち運んでいたら相当な量になるだろうに、手放さないまま、カヅキとともに旅をした手紙たち。見せてよとせがむくらいはきっと許される。
 そんな話をしているうちに、少し多いかという量を並べたはずが、ぺろりと平らげたカヅキは目も覚めたようだった。
「カヅキくん、洗濯物出して。今日のうちに洗っちゃおう。んで、君はお風呂に入っておいで」
「はい、あの、クーさん……」
「うん?」
「勝手に入ってすみませんでした。店に行けばよかったって今思って」
「いいんだよ、合鍵渡したのは俺だしね」
 どれだけ詰め込まれたのか、バックパックから引っ張り出した服は知っているものが数枚、あとはすべて知らないものだった。それらをまとめて洗濯機に放り込み、カヅキが来ているものも剥ぎ取って、彼自身は風呂場に放り込む。すぐに聞こえてきたシャワーの音、湯船につかったのだろう、静かになって「あー……」なんて声が聞こえてきた。思わず笑ってしまって、中からくーさん! と中でカヅキが水を叩く。ごうんごうんと回る洗濯機に紛れたと思ったのに。
 足を伸ばせるような風呂は随分と久しぶりらしい。全身が浸かって、心地が良くて出てしまったのだ。気持ちはわかる、とてもよくわかる。今度温泉にでも行こうかと誘えば、元気な返事が戻ってきた。その様子だと、きっと彼はしばらくはここにいる。
「あっ!」
「どうした?」
「服全部出しちまいました! 全部! 着るものない!」
「ああ、君が置いてったやつ出しておいたよ。洗ってあるから心配しないで」
 大事にしまっていたもの。といってもクロゼットの奥に詰め込んだわけでもなく、すぐに出せる場所にずっと置いていた。たまに広げて虫干しして、持ち主を待つそれらと黒川はずっと過ごしてきた。
 それが再び動き出す。タオルはさすがに新しいものを下ろした。風呂から上がってきたカヅキの髪を乾かしながら、見慣れたはずのスウェットを見下ろして。裾を折り返すのが少し短くなったかもしれない。あらかた水分を飛ばして、それから温まったせいかうとうとし始めたカヅキを抱き締める。膝の上に乗せると、記憶よりも少し重さが増しているようだった。
「最後はどこにいたの?」
「アメリカの、西海岸……毎日踊って、すげー楽しかったです」
 声が丸い。寄りかかってくる身体はぬくもりの塊だ。そのまま立ち上がると降りようともがくものだから、そのままでいてと頬にキスをした。
「少し重くなったね。筋肉がしっかりついてきたんじゃない?」
 どう成長したのか、その話を聞いて、その身体を見て知りたい。けれど嬉しそうに笑った気配はしたものの、カヅキの返事はもうあやふやだ。ベッドまでの数メートル、今度は黒川も一緒に潜り込む。遠慮がちに、しかししっかりとくっついてくるカヅキが愛おしい。
「くーさんの、においする……」
 すん、と鼻を鳴らしたカヅキはそのまま眠りに落ちていく。おかえりと囁いて、ただいま、それが聞けたから、もう今日は眠ってしまおう。五年ぶりの共寝はきっと、幸せな夢を運んで来てくれる。


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