「今までありがとうございました」
深々と頭を下げ、カヅキは三年弱の間、大事に育てた感情に、別れを告げようとしていた。
好きだと告白したのは自分からで、生徒と教師という立場、同じ男という性別、その他諸々のことがあるから受け入れてもらえるとも思っていなかったのが、どうしてか付き合うことになって、あまつさえ好きだよという言葉まで貰ってしまって、だからカヅキは基本的に彼を、黒川を拒むことはない。関わりは、副担任と、体育の授業だけ。たまに廊下ですれ違ったとしても、会話をするどころか顔をちゃんと見るかどうかもわからない。連絡はメールのみ。ごく普通のカップルのように放課後どこかに寄ったり、休日にはデートしたり、そんな人目につくことも出来なくて、会えるのは昼休みや数少ない自習時間だけだ。
初めてキスしたのは屋上に続く扉の前だった。かつてこの学校に通っていたという黒川は、カヅキの知らないスポットをいくつも知っていた。施錠され、鍵は用務員室に補完されている屋上へは、よほどのことがなければ誰も近寄らない。第二体育館は授業で使われることはほとんどなくて、音楽室の二つ隣の部屋は準備室とは言われているものの、倉庫扱いで学園祭前以外は開けられることもない。黒川と初めてセックスしたのはその倉庫もどきの準備室でだった。自習になった四時間目から昼休みを使っての行為は決してロマンチックなものではなかった。すぐ壁越しの廊下を歩く生徒たちの足音を聞きながら机の上で足を開き、黒川に貫かれ、揺さぶられ、そして果てた。それから今まで、校内のそんな人のあまり来ない場所で、何度もセックスをした。二人きりになれる場所があればキスをして、抱き締められた。埃くさい倉庫も、薄暗い部屋も、遠くに聞こえる笑い声、足音、近くを通り過ぎていく人の気配。声を殺すことを覚え、密やかに名を呼ばれる喜びを知った。いつしかそんな部屋の近くを通るだけで、においを感じるだけで、ふとした瞬間に身体が疼くようになってしまっていた。
そうやって身体を繋げ、夜にメールをして、たまに電話をして。絆と呼べるものは少しずつ深くなっていった、と、カヅキは思っている。しかし、何度も頼んでも、いくら強請ろうとも、黒川はそのテリトリーにカヅキを迎え入れてはくれなかった。本当は彼女でもいるんですか、結婚でもしてる? なんて笑えない勘繰りに思考が焼き切れそうになったり、遊ばれているだけなのだろうかという不安に襲われたり、きりがない。黒川は、生徒がそんなに教師の家に入り浸るものじゃないと、何か噂でもたったらまずいから、なんて当たり障りのない言い訳は何度も聞いた。頭では理解できるのだ。カヅキはまだ学生だ。だからこそ、そんなことになったならば全ての責任は黒川に行く。それでも学校での忙しないセックスじゃなくて、二人きりになれる空間で、ゆっくりと気持ちのいいことを追いかけたい。そんな気持ちは消せるものではなかった。普通の恋人同士みたいに時間を過ごしたい。言いすぎて嫌われるのも怖くて、たまに強請ることしかできなかったけれど、そうやって過ごして、三年はあっという間に過ぎてしまった。
一度も叶えられることのなかった望みが、カヅキに一つの確信を抱かせる。黒川は、カヅキのことを多少は好いてくれているのだろうが、実際は学校で背徳的な行為に励むことを第一に楽しんでいるのではないかということだ。なるほど、昼休みの更衣室なんか良い例だ。体育館では早めに来た生徒たちが球技で遊んでいて、その声が聞こえる場所で、セックスをした。誰かの足音が聞こえるたびにカヅキは身体を強張らせたし、その度に咥え込んでいたペニスは質量を増した。きゃらきゃらという女子生徒たちの歓声を背後に射精させられて、同時に黒川もゴムの中に興奮の証を吐き出していた。一度や二度ではない。ここではちょっと、という場所でも、黒川が好きな気持ちはそんなものを全て覆い隠してしまうくらいに大きかったのが、カヅキが彼を拒めないなによりの理由だった。今だけは、こうしてつながっている瞬間だけは、先生は俺のもの。
でも、だからこそ。三年に上がり、卒業を意識し始めて、カヅキは茫然とした。だって、学校でやることにこそ興奮を覚えるのであれば、カヅキとの関係はカヅキがこの学校にいなければ成立しない。大学に進学を控え、この校舎から去っていくカヅキでは、黒川の求めるものは与えられないのだ。関係が終わってしまう。新生活は楽しみながらも、こんなにも卒業したくないと思うことになろうとは、予想外も予想外のことで、久し振りに正面から抱かれていたというのに気もそぞろになってしまっていたのだろう。身体の中に埋まり、どくどくと脈打っていた雄がずるりと引き抜かれてしまった。
「集中できないならやめよっか。時間もあんまりないし」
「や、やだ、先生ごめんなさい、ちゃんとする、するから」
「そう? でも今日のカヅキくん、全然気持ちよさそうじゃないよ」
気が向かないなら早く言ってくれればと、すっかり続ける気を失った黒川が、半端に勃起したままのペニスをスラックスに仕舞ってしまう。せっかく、珍しいスーツ姿だったのに。黒川の誘いに一二もなく飛びついたのはカヅキだったというのに。なにせ、午後からは卒業式のリハーサルだ。部活棟の隣に位置する体育館にはもう続々と生徒が集まってきている。長ベンチに横たえられたカヅキにも、その足音や声は聞こえていた。目前に突きつけられた卒業という事実に、もうじきに言い渡されるだろう別れに、どうしても意識が向いてしまう。
「じゃ、遅れないようにおいでね、仁科くん」
「先生待っ、」
呆気なく扉は閉められてしまった。下半身を剥き出しにして、途中まで押し上げられた熱は腹の中で渦巻いている。望んでいた未来とは乖離した現実がカヅキを苛む。こんなはずじゃなかった。恋愛はそりゃあ苦しいことも辛いこともあるだろうけれど、それをカバーして有り余るほどの喜びに満ちているはずだった。なのに、今は言葉こそ与えられて身体の繋がりもある、けれどそれだけだ。それだけで満足できる頃はとうに過ぎてしまっている。それでも、カヅキは黒川が好きだった。遊びでも良いと、思ってなければいられないほどに。
だから、自分から別れを告げることにした。終了を告げられて、まともでいられる自信がなかったから、いっそ己の手で終わらせてしまったほうがよほどましだ。意思が揺らがないように、それきり黒川の誘いは断るようになった。声を聞けば恋しくなるし、触れればもっと欲しくなるのは分かっていた。今は遠方に行ってしまう友人たちと思い出を作っておきたいと言えば、黒川もあまり言い募ることはなかった。
そして迎えた卒業式の日。式典を終え、がらんとなった教室でカヅキは黒川に深く頭を下げたのだ。三年間、遊びでも付き合ってもらったことは、カヅキに苦さと甘さを同時に与えた。それは確かに大事な記憶であり、求めることの、求められることの喜びを知ることができた。好きな人と少しでも一緒にいられた、それで十分だ。そう、言い聞かせて。
いた、のに。
「何言ってるの」
「俺は今日で卒業しちまうから、だから、もう学校で会えないし……」
「そりゃそうだよ、でもなんでさよならなの? 俺のこと嫌いになった?」
「そんなことない! 先生のことはこれからも好きです。でも、」
「じゃあいいじゃん、やっと家に連れ込めるようになるってのにさ。やりたいこといっぱいあるの、我慢してたんだよ俺」
「は、……え……?」
いっそうちに住めば? 大学からはそんなに遠くないし部屋ならあるし、いいじゃんそうしよう、そしたらやりたい放題ヤれるし、恋人っぽいこともたくさんできるよ。右から左へと抜けていく言葉の意味がわからない。我慢してたって何を。縛ったり口塞いだりスリリングなシチュエーションであったり、それ以上のことなのだろうか。
「で、これからうちくる?」
「行きます」
幼馴染にクラス会には行かないと連絡したら「先生によろしくね」と返信がきて、話してないはずなのになぜだとひやりとしたが、手を引かれて初めて通る道や見たことのないマンション、知っているのに知らない匂いのする部屋、今までに寝たどこよりも寝心地の良いベッド、そのどれもが目新しくて、初めてゴムなしで抱かれ。
「これからは遠慮なく愛させてもらうからね」
と腰が立たなくなるまでセックスをしたのだった。