好きだった。
俺の前では決して吸わない煙草にベランダで一人火を灯し、赤い炎を夕暮れの空に浮かばせて、白い煙を燻らせる彼の背中が好きだった。背はそんなに高くない、それでも現役の頃よりも身体の厚みの増した、男の身体はがっしりとしていて、広い背中は今もたくさんのことを語りかけてくる。あの背中に俺は何度も爪を立てて縋り付いたのだ。
窓は開け放したまま、網戸越しに時折部屋の中にそよぐ風がカーテンを揺らし、彼の吸う煙草のにおいも一緒に運んでくる。大抵、彼は白いシャツを着ていて、それが沈みゆく夕焼けに照らされて赤く染まり、俺が閉じられた側の窓に背を預けると、名前を呼んでくれた。
フローリングの床は直接座るには、ぎしぎしという身体には少し辛かったけれど、いつしか彼はそこに厚手のマットを敷いてくれて、寄りかかれるように一抱えもあるクッションを置いた。
太陽が沈んでいく中、大学はどうだの、何が美味かっただの、旅行するならあそこがいいだの、さっきの俺は中を突かれてひどく喜んだだの、今度はおもちゃを使おうかだの、俺のライバルとされる男が店にやってきただの、ストリート系の雑誌の記事がどうだの、とりとめもなく他愛のない話をして、三本目の煙草が灰皿に捩込まれると、彼は細く長く紫煙を吐き出して、からりと網戸を開けるのだ。使い古したサンダルはところどころ擦り切れて、裸足の足がそれを投げ捨てる。立とうとしない俺の前に彼はしゃがみこんで、つい十数秒前まで煙草のフィルターを咥えていた唇で、苦いキスをする。俺はそのキスがきらいで、とても好きだった。
彼の部屋はいつも、彼の好む香水と、煙草のにおいと、桃色の好む甘いもののにおいがした。俺はそれがとても好きで、いつまでもそこにあるものだと信じていた。それなのに、彼は突然姿を消した。いなくなってしまった。俺の前からも、桃色の前からも、彼の大切な店からも、何もかもの前から。
伽藍堂になった部屋の中は何のにおいもなくて、彼の気配もなくて、ただ彼の使っていた端末がぽつんと残されていた。俺や、みんなや、桃色や、たくさんのひとと撮った写真のデータは全部なくなっていて、端末の契約も切られていて、ただの電子機器に成り下がっていた。家財は全部なくなっていた。俺が持ち込んでいたものも全部、なくなっていた。あのマットもクッションも、擦り切れたサンダルも、彼の好きだったCDも雑誌も何もかも。
彼の店は他の人間の手に渡り、彼を知るものは皆彼の行方を知らず、むしろお前が知らないのになぜ知っていると思ったのかと問われ、一日中いろんなところを回って、彼は見つからず、疲れ果てて、彼の部屋に行った俺を迎えたのはやはり空っぽの部屋だった。賃貸だと聞いていたから不動産を訪ねてみれば、今月の分まで家賃は振り込まれているが、それ以降は打ち切られるそうだ。彼からそんな連絡があったらしい。俺が、最後に彼と話したのは五日前で、その連絡があったのは二日前で、でも彼のことを見たのは、俺が最後だった。
抱き締めてくれた腕の強さや、名前を呼ぶ声、触れた温もり、分かち合った快感も、全部まだ覚えているのに、彼だけがここにいない。否、あの桃色もいない。ふたりでどこかに行ってしまったのか。
「なんで」
ぼろりと涙がこぼれた。一度溢れてしまえば止まることを知らず、俺は暗い部屋でひたすら泣いて、泣いて、泣いた。
泣き疲れた俺はいつの間にか眠っていたのだろう。朝日が瞼を刺し、硬い床で寝たせいであちこちが軋む身体を持ち上げると、やはりそこには何もない。悪夢だったらどんなにいいか。
「クーさん」
また溢れそうになる水をなんとか押し留め、俺は落ちた端末を拾い上げた。そして顔を上げて、「モモ」空に浮かぶ桃色の名を呼んだ。こくりと頷いた彼女は、表情こそ読めないもののいつもよりもずっと静かだった。
「クーさん、は」
しらない、彼女は首を横に振った。どこに行ったのか、知らない、一緒に行かなかったのか、知らない、いつ、知らない、なんで、彼女は黙り込んだ。喧嘩した、否、嫌いになった、否、怒らせた、否、――見えなくなった、是。彼はそして、姿を消したのだ。
モモはここにいるのに。悲しそうな顔をする彼女に腕を伸ばしたら、ゆっくりと落ちてきて、ほろりと涙を流した。
もらった合鍵はまだポケットの中だ。不動産に行って、部屋の契約を伸ばしてもらおう。それから彼を探そう。モモがここにいることを、もう一度、みえなくてもここにいることを教えなければ。彼とモモは大切なバディなのだから。だからこそ彼はふらりと消えてしまったのだ。俺は、彼の恋人だけれど相棒にはなれない。でも彼女はここにいるし、唯一無二がふたつあってもいいんだ。
クーさんを探そう。モモは頷いて、そして俺は立ち上がった。置いていかれてしまった俺たちはそっと寄り添って、仮初めの相棒がここに生まれたのだった。