瞼を朝日が焼く、目の眩むような痛みから逃れるように仁科カヅキはシーツの上を転がった。覚醒しない意識は世界の輪郭をも曖昧にさせ、今まさに寝転がっている場所がどこなのか理解するまでに数秒を要した。見知らぬ天井ではない。カヅキが転がってなお落ちることのない大きなベッドの肌触りの良いシーツも、ベッドマットの柔らかさも既に何度か触れたことのあるものだ。
(ああ、きのう)
左腕を持ち上げようとして触れた温もりが、この部屋の持ち主だった。褐色の肌に覆われた背がゆるやかに上下しているところを見ると、彼はまだ夢のなかにいるのだろう。起こさないようにそっとベッドから足を下ろすと、ひんやりとしたけの長いラグに擽られた。殺風景な部屋の中にある数少ない家具は、どれも部屋の主が厳選したもので、なるほど良い品が揃っている。このままラグに転がったところでフローリングの床の硬さは和らげられるだろうし、きっと微睡む程度には休める。何度目かにこの部屋に上がり込んだときに、いつの間にかこのラグの上で眠ってしまっていたのは記憶に新しい。
そのときは、確か家主が大判のタオルケットをかけてくれていたのだ。すぐ隣に腰を下ろした彼が雑誌のページをめくる音だけが部屋を支配していた。傲慢な態度に暴力的な言動とパフォーマンスを見せるくせに、ふとした瞬間にそういう面を見せるのが、大和アレクサンダーという男だった。
開いたままだった扉を抜け、整頓された台所に入ると水のにおいがした。昨日使ったグラスが付近の上に逆さにして置いてある。片付けるつもりだったのだろうが、気にせず捻った蛇口から水を注いだ。ほんの数秒、飛沫に一層涼しくなったような気持ちのまま水を一息に飲み干すと、体の中を冷たいものが走り抜けていく。ひどく喉が渇いている。
「あ、……あー」
掠れた声が昨晩のことを象徴している。いつもそうだ。彼と二人でいるときは、会話は決して多くない。その分、ダンスで感情を、想いを、その存在をぶつけあっている。出会いはじめこそ敵愾心に滾っていたアレクサンダーも、度重なるプリズムショーバトルの中でカヅキの思いを受け入れてくれた。今はストリート系の一人として対等な位置に立ち、戦う友人――ライバルのようなものになったと認識している。その過程でどういうわけか夜を共にする関係まで出来上がってしまい、昨晩もバトルで滾った熱を重ねているうちにカヅキは眠っていたらしい。喉がひりつくような乾きを訴えているのは十中八九そのせいだ。アレクサンダーは、声を聞きたがる。楔を打ち込まれ、堪らえようとすると傍若無人な指が唇を押し開き、舌を掴む。唾液にまみれた指に口付けるアレクサンダーの獰猛な笑みに、身も心も喰らい尽くされてしまいそうになる。
二つ年下ながら、惚れ惚れする程の声を持つアレクサンダーに名を呼ばれ、あられもない姿を嘲笑っているのに紛れも無い興奮をその中に混ぜ、押し殺した吐息のような喘ぎが降り注ぐ。耳に吹きこまれたそれらが全身を融かしていくようだった。身体という形が輪郭を失っていく恐怖は、きっと溺死に似ている。違うのは、伸ばした手を取る者がいるということだ。鍛えぬかれた逞しい身体に縋り付き、潰れるのではないかというほどに強く抱き締められる。テクニックもへったくれもないセックスは、しかし今までカヅキが体験したことのない快感に満ちていた。
互いにそういう経験はないに等しく、無茶をしながら繋がった時は痛みが勝り蹴り飛ばしたこともある。それに懲りず、やる気すら催して動画を探してはトライアンドエラー、そして快感と呼べるものを得た瞬間、感情のどこかも繋がったのだ。これが恋だとは言えないだろう。けれどきっとそれによく似た、近しいものであることは間違いない。例えばカヅキが速水ヒロや神浜コウジに抱く感情とは全く別物で、大和アレクサンダーにだけ向けられている。この関係に疑問を持たないわけではない、しかし何か問題があるのかと聞かれたらそれは否だ。カヅキは、自分自身がそうしたいからこの関係に浸っているのだと、それだけは自覚があった。正直に言えば、今までもそういう関係に誘ってきた輩はいたのだ。決してその手を取らなかったカヅキが、半ばなし崩しだったとはいえアレクサンダーを受け入れたのは、彼がカヅキの中で特別な存在になり始めていたからだ。ありふれた陳腐な言葉では表現しきれない、この――
「おい」
「うわっ」
いつの間に起きだしていたのか、彫刻のような上半身に何も羽織らず、アレクサンダーが手を伸ばしていた。カヅキの顔を鷲掴みにすることも容易いのではないかという手のひらが受け止めたのは、カヅキが飲み干したグラスだ。
「っぶねえな」
「……悪い、さんきゅ」
「いいけどよ」
割れてねえし、嘯いたアレクサンダーがグラスに水を注ぐ。溢れることもなく、狭い円の中に生まれた波は一瞬で掻き消えてしまった。仰け反った喉が上下する、ぼんやりと眺めていただけのそこから目が離せない。色っぽい、と感じるが性的な欲求を促すかといえば微妙なセンだ。ううん、と唸ったカヅキを胡乱げな視線が捉え、アレクサンダーの眉が寄った。
「何だ」
「あ、いや、なんつーか、……俺達の関係ってなんだろう、って思ってさ」
うまい言葉が見つからないのだとカヅキは呟く。誰かに聞かせたいわけでも、知ってほしいわけでも、知りたいわけでもない。
「名前を付けてえのか」
「……わかんねえ」
「じゃあ、いいだろ。いつかその時が来れば分かる」
カツンと澄んだ音を立ててグラスがシンクに取り残される。カヅキが顔を上げた時にはもうアレクサンダーの背中しか見えなかった。残る赤い筋は、カヅキの手が刻んだものだ。ああいうものは好きあった者同士ですることだと思っていたし、今も思っている。それを考えるとアレクサンダーとの関係はあまりにもイレギュラーだ。その時が来れば。それまで、型にはめ込む必要はないのだろうか。
「……わかんねえ……」
向こうで音が増えた。アレクサンダーがテレビをつけたのだろう。静けさを切り裂く雑音がカヅキの思考を塗替えていく。今日は雨が降るかもしれない。ただひとつ、答えはカヅキ自身で見つけなければならないのだと、はっきりとしない気持ち悪さが最後まで失われることなく感情の奥底に張り付いたまま一日が始まっていく。