うさぎとフライ


アレクサンダーはもう小一時間ほど、腕を組んだまま目の前に置いてある物体を睨み付けていた。視線に力があるならば、既にそれは黒焦げになるか、はたまた小さく丸められてしまっていただろう。しかしどんなに鋭い目つきをしていても、熱光線が出るわけでも、重力を歪める力があるわけでもない。よって、それはアレクサンダーの目の前に、この部屋の主が持ち帰ってきてからずっと存在していた。
世の中イベントだらけだ。宗教入り乱れるこの日本という国は、何でもかんでもイベントにして楽しんでしまう。決して悪いことではないのだが、その大半が起源を見失ってしまっていて、時に大人たちが度を越している姿は見ていて面白いものではない。と、いうことは部屋の主――黒川もよく知っているはずなのに。
「………………」
重苦しい溜息は何度目になるだろう。手を額に押し当て、そして天井を仰ぎ見て。もう一度テーブルに目を移したらそれが消えてなくなっていればいいのにと願いを込めるものの、現実それが叶うはずもない。
つくづく甘くなったものだと自嘲するように、アレクサンダーはもう一度深く長く息を吐いた。


アレクサンダーの退寮と共に引っ越した部屋は、黒川よりも二十センチほど背の高い彼に合わせた間取りで選んだ。全体的に少し広く、少し高い。大は小を兼ねるというし、黒川としても不便はなく、何よりアレクサンダーがのびのびと過ごす姿を見られるならば難があっても多少どころか全く気にならないものだ。家に帰る――その道が長く感じるなんて思いもしなかった。
「ただいま」
段差のない玄関には、よく履き慣らされた大きなスニーカーが一足、行儀よく並んでいる。扉を開けた瞬間から漂ってくるのは、今日の夕食のにおいだ。始めこそ目玉焼きもまともに作れなかったアレクサンダーが、今や一汁三菜くらいならなんとか組み立てられるようになったのだ。目覚ましい進化である。上着をかけて、キッチンに顔を出すと「おかえり、飯もう少しかかるから、風呂入っといてくれ」と菜箸を操
る姿があった。
「晩飯なに?」
「フライと天ぷら。今からしばらく話しかけんなよ」
「おっ初挑戦じゃん。楽しみ」
対面式のキッチン、カウンターには誰かのブログが開かれている。料理の本と並んでいるあたり、揚げ物のコツでも見ていたのだろう。
アレクサンダーは案外――その見た目からすると何事も大雑把でも不思議ではないという印象を受けやすいが、その実几帳面である。一緒に暮らしてみて、その生活態度から育ちは悪くないのだろうことは容易に見て取れた。話し方こそ砕けてきたが、初めてあった時に尊敬していると言われ、それからもずっと根っこの部分にはそれが感じられる。端々に見えるそれは、いつだって黒川を喜ばせる。揚げ物用の鍋に波波と注がれた油に真剣な眼差しを向ける横顔は、あの頃よりもずっと精悍に、男が見ても惚れ惚れするほどに格好良く育った。自慢の恋人だ。
そんな恋人が邪魔をするなというのだからおとなしく従っておくべく、黒川はそっとリビングルームを後にした。しっかり沸かされている風呂に愛を感じる。
足を悠々伸ばせる風呂を選んでよかった。一日の汗と疲れを洗い落としてすっきりとした身体が軽い。冷蔵庫から出したビールをあけながら、アレクサンダーに言われるままに皿を運んでいれば食卓の準備もあっという間に整っていく。まだ洗い物を同時に終えるレベルにまでは至っていないが、それももう時間の問題だろう。黒いエプロン姿で最後の一皿の用意をしているアレクサンダーが満足そうに顔を上げる。
「何かその格好裸エプロンに見えるね」
「はあ?」
「こっちからは下になに穿いてるか見えねーもん」
上半身、前から見ればほとんどをエプロンが覆っており、すでに見たから知っているものの、布面積の少ないタンクトップを着ているせいで、腕は丸出しどころか脇まで丸見え、まるで裸に見えるのだ。そういう趣味があるわけでもないのにどきりとしてしまうのは、もう惚れた欲目としか思えない。
にこにこ――というにはあまりに鼻の下を伸ばした黒川に、しかしアレクサンダーは胡散臭いと言わんばかりの目を向ける。
「知らねえよ。アホ言ってねえで、これ」
「ええ、ちょっと、それだけ……あ、うまそう」
伸びてきた手の上にはきつね色の天ぷらとそれよりも色濃い唐揚げが並んでいる。紫蘇に舞茸、アスパラに大ぶりの海老。しばらく前に何かのバラエティを見ていた時に食べたいと話していたことを覚えていてくれたのだろう。そこに肉が加わったのは、アレクサンダーがそれだけでは物足りないからか。よく動き、よく食べるアレクサンダーは見ていて気持ちがいい。それにしても初めての挑戦とは思えない出来栄えに、扱いが若干雑になってきたことへの不満も一瞬で吹き飛んだ。
手を拭ったアレクサンダーが、黒川の左手側に腰掛ける。向い合せよりもテーブルの角を挟んで、近くにいたい。そう言った日から、左利きのアレクサンダーはいつだって黒川の左に座ってくれる。
「いただきます」
「おう」
その、少し照れくさそうな声がかわいい。黒川がどれか一つでも口に運んで、「うまいよ」と告げるまで箸を彷徨わせているのも、ほっとしたのも一瞬でドヤ顔になるのも、可愛くて仕方がない。こんな大男にかわいいもクソもないとアレクサンダーはいつも言うけれど、かわいいに大きいも小さいも赤も青もピンクも関係ない。
「この海老どこで買ったの? すげーうまい」
「築地。仁科が買い物付き合えっつーから」
「カヅキくん?」
「神浜の使いだと」
納得。曲作りに追われていると聞いている。アメリカから帰国した彼は今や引っ張りだこの人気作曲家だ。相変わらず料理はしているというし、本来ならば自分の目で選びたいだろうが、アメリカでのミュージカルの成功とプリズムキングカップ以来、作曲依頼が殺到しているというから買い物に行く時間もないのかもしれない。
アレクサンダーは、仁科カヅキや香賀美タイガといったストリート系プリズムスタァだけでなく、他のエーデルローズ生とも随分と関わりを持つようになった。暴君らしい態度は今も見せるが、野生の獣のようだったそれが、理性ある闘志へと変化してすらいる。カヅキに言わせれば「クーさんに似てきましたよ」だ。
世界が広がるのはアレクサンダーにとって好ましいことだ。それだけの実力は持っている。もっと大きな舞台で、いろいろなことに挑戦してほしい。無論、プリズムショーのことは忘れないでいてくれるのが一番だが、アレクサンダーが決めた道を歩んでいくのを、黒川は喜んで背を押すことだろう。
「冷」
「あ、なに?」
黙々と天ぷらを、それからアレクサンダーの手にぴったりのサイズの大きな茶碗に盛られたコメと、サラダとを口に運ぶ姿を眺めていたら、アレクサンダーのことを考えるのに夢中になっていつの間にか手が止まっていたらしい。食事中は普段よりもずっと静かになるから尚更に。
「食わねーなら俺が食う」
「食べる、食べるよ。美味しいんだから。初めての作る料理も失敗しなくなったし、もう料理系のバラエティ番組も余裕で出られるんじゃない?」
一瞬眉を顰めたものの、アレクサンダーのあらかたが空になった皿から箸が伸びてくる。慌てて止めて、残りひとつとなった海老を頬張った。


後片付けは黒川の当番だ。その間にアレクサンダーは風呂に入る。とはいえ、揚げ物に使った鍋は既に片付けられていたし、食器を洗うだけならばすぐに終わってしまう。チャンネルを回しても見たいドラマも映画もない。早々に読もうと思っていた雑誌を引っさげて寝室にどんと構えたベッドに乗ると、途端に眠気が襲ってくるものだから身体は現金だ。ここは休む場所なのだとしっかり記憶している。
ぱらぱらとページを捲り、半分ほどまで読み進めたところで半分程開いたままだった扉の向こうから足音が聞こえてきた。シュワルツローズの寮生活をしていたときは高層ビルの高層階の趣味の悪い露天風呂くらいしか広い風呂がなかったらしく――しかも法月の浸かった湯が降りてくる仕様という意味がよくわからない作りだったというし、今この家のゆったりとつかれる湯船をアレクサンダーはいたく気に入っている。
それにしてもやけにゆっくり入っていたらしい。珍しい、と雑誌から顔を上げるとちょうど褐色の青年が姿を見せたはいいが、首からタオルをかけたその姿に黒川は言葉を失うことになった。
「んだよ」
ぽかんと口をあけたままの黒川をぶすりとして睨めつける、その若草色の髪の間からは二本の耳が飛び出していた。二メートル近い長身のおかげで、真っ黒の長い耳の先端は下がり壁にぶつかりそうだ。
「それ……」
「あんたが言ったんだろ」
「すごく似合ってる」
「嬉しくねえ」
言葉の通り、その表情は心底嫌そうで、しかしキレてぶん投げるどころか外さないのだから、年下の恋人は随分と黒川に甘くなったものである。
それを渡したのは一週間程前のことだ。プリズムストーンの季節イベントで用意したは良いものの、結局使わずじまいで勿体無いと持ち帰り、そして彼に差し出した。すげなく却下されてそれっきりだったから、てっきり忘れられたか処分されたものだと思っていたのに。何故、と問えば思い切り渋面になったアレクサンダーは黒川の横に勢い良く腰を降ろした。トレーニングの成果が如実に現れ、厚みの増した腰に腕を回せば、風呂上がりとは思えないほどにひやりとしていた。こうまで冷えるほどに逡巡していたのだろうに。
「いやなんつーか……しなきゃならねえっていう使命感っつーか」
「?」
「……あんたが望むことは出来る限り叶えたいと思ってんだよ、俺だって」
――あんたが俺にしてくれたように、してくれるように。
膝の上に乗り上げるようにして見上げたアレクサンダーが、その手のひらが銀色の髪をかき乱す。手のひらに視界を遮られる直前に見えたひどく、――それはもう砂糖菓子のように甘く柔らかな紫色は、きっと見間違いではない。そんな顔ができるようになったんだなぁ、力にばかり固執して、強さしかないと言わんばかりの言動を繰り返して、力任せに生きていたお前が。
アレクサンダーを取り巻く多くのものが彼を変えた。その中でもひときわ、黒川の存在が大きなものであることは間違いない。情緒面でも、そして――この、身体においても。
腰を撫でた手に、アレクサンダーのシックスパックがひくりと震えた。隠そうとしたってくっついているのだからバレバレだ。唇を押し付け、あとが残らないほどに触れていくと、あっという間にその気になる。
「……ヤんなら外す」
「え、つけたままにしてよ」
「ぜってー嫌だ」
「だめだめ、俺のお願い聞いてくれるんでしょ」
「なんでも聞くとは言ってねえ」
「あっついでにこれ付けてようさぎのしっぽ風のバイブ、まさかこんな時に役立つなんて買っとくもんだよねえ」
「付けねえっつってんだろうがこのエロオヤジ!」
抵抗するアレクサンダーをベッドに引きずりあげて、サイドボードから必要なものをぽんぽんと放り出すとふわふわの丸いしっぽがついたおもちゃが投げ返される。なんで買ったか黒川ももう覚えていないそれが、その晩日の目を見たのかどうかは二人だけの知るところである。


のいさんお誕生日おめでとうございました

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