幻想をぶち壊せ!


「あれ」
 アレクサンダーがハンバーグステーキの最後のひとかけらを口に放り込んだ瞬間、カヅキが妙な声を上げた。傍らに置いたスマショがメールの着信を告げたらしい。それだけならば何の事はない、普通のことだ。二人でいるときはなるべくSNSであったりメールであったりをしないようにと心がけているが、至急の用事というものが入ってくるのは仕事柄仕方のないことだ。
 しかし、今回はそうではないらしい。少なくとも、鯖の味噌煮を一口サイズに解したまま、カヅキは眉を潜めて画面を覗き込んでいる。
「どうした」
 首を傾げた挙句、カヅキは箸を置いてスマショを弄り始めた。しかし、どうにも仕事という雰囲気でもなければ、火急の用事というわけでもなさそうだ。指先が画面を滑り、タップしてメッセージを打ち込んでいる。魚の脂に濡れた唇が尖っているとつまみたくなる。かぶりついたらきっと鯖の味がするのだろう。
 一つ二つとメッセージの遣り取りをしたカヅキがやっとスマショを置いたときには、アレクサンダーの皿はすっかり空になっていた。ドリンクバーのおかわりから戻ってきたら、カヅキは再び鯖の小骨との戦いを再開していた。箸がちまちまと動き、半透明の小さな針を避けていく。
「仕事か?」
「いや、クーさんから」
 クーさん、といえば黒川冷だ。元祖ストリートのカリスマ、アレクサンダーもカヅキも彼に憧れてストリート系への道を進んで、今に至る。アレクサンダーがカヅキに出会う前からふたりには面識があり、カヅキを通してアレクサンダーも憧れへと会うことが叶った。アレクサンダーの記憶にある当時とは随分と変わった雰囲気に少しばかりの失望を抱いたことは確かだったが、彼は十以上も年の離れた大人なのだ。いつか、カヅキやアレクサンダーだってそうならないとは言い切れない。ストリート系の仲間(というのはなんとなく尻の座りが悪いしまず仲間ではない、断じて)として紹介されたときに、彼が嬉しそうに笑ったので、それでいいとアレクサンダーは納得している。
 そんな黒川冷がなんのメールだったのかと聞けば、今いる店が美味いから今度一緒に行こうね、という誘いだったとか。カヅキは先日成人を迎え、そうやって黒川に飲みに連れて行かれることが増えた。本人も、楽しんでいるらしい。そして、二年後に成人して晴れて飲酒解禁となるアレクサンダーに、はじめに何を飲ませるか今から画策しているのだとか。そうやって二人に弟分のようなものとして可愛がられるのは擽ったく、時に鬱陶しく、しかし決して嫌なものではない。
「なんか、旅行に来た外人さんと飲んでるんだってさ。ひとりがアレクサンダーに似てるって言ってた」
「へぇ。酔っ払ってみんな同じ顔に見えてんじゃねえのか」
「んなわけねーよ、クーさんをなんだと思ってるんだお前」
 欧米人から見たらアジア人がみんな似たような平ぺったい顔に見えるのと同じく、アジア人から見た西欧人だってそんなものだ。小鉢に残ったひじきを一口で食べ終え、カヅキは次々と皿を空けていく。このあとは、もう帰るだけだ。シュワルツローズの寮の食堂の時間が過ぎてしまったというアレクサンダーと、実家に帰っても食べるものがないというカヅキが揃えば、適当な店で食事をとなるのは、今や当然の流れだった。次の日の予定がなければ、そのままカヅキの実家に向かうことだってある。だってアレクサンダーとカヅキは、そういう関係だ。
 細身の身体にしては健啖家のカヅキが皿を空にして、口の中をすっきりさせたら時計はもうそろそろ日付を超えるくらいにまで近づいていた。その間にも、プリズムショーの話であったり、アレクサンダーがこの間やっと完成させた新しいジャンプであったり、出ていた雑誌のことであったり、とにかく話のネタは尽きることがない。あまり長い時間を一緒に過ごせないからこそ、こういうときは帰りにくい。帰りたくない。もっと一緒にいたい。叶うことならば踊りたい。
 来年、高校を卒業したら始めると決めた一人暮らし生活に入れば、少しはそんな悩みも減るのかもしれない。まだ一年以上先の話だ。その頃、カヅキがどうしているのか、アレクサンダーが何をしているのか、まだ想像もつかない。ただ、今と変わらず肩を並べて踊っている、そんな未来であればいい。
 店の外はすっかり冷え込んでいた。繁華街の近くだからか道は明るく、二人が店に入った頃よりも人通りも多少は減ったとはいえ、まだ往来の行き来は十分にある。適当に入った店、最寄りの駅を探すカヅキとあくびを噛み殺すアレクサンダー。あっちだ、とすぐに歩き始めたカヅキの小さな背中を追いかける。
 食事で温まった身体がどんどん冷やされていく。そろそろ木枯らし一号がという予報も聞いた。これから季節は冬に移り変わっていく。アレクサンダーがカヅキと出会って三度目の冬だ。一度目は口を聞くこともなく、二度目は、たった一年の間に随分と距離が縮んだものだと周りが驚くほどに、ともに過ごす時間が増えていた。
 アレクサンダー自身、そんな関係になるなどと予想だにしていなかった。でも、現実は小説よりもよほど奇妙なことが起こるらしい。かつてはあんなに怒りを覚えた相手が今はこんなにも――
「ん?」
 感慨深さに浸りかけたアレクサンダーのつま先が、こつんと何かを蹴飛ばした。何だ、と視線を下ろすと、立ち止まったことに気が付いたらしいカヅキも振り返る。衝撃の正体は、すぐに判明した。ピンクや様々なビーズなのかマスコットなのか、とにかくアレクサンダーには判別のつかない何かに飾り付けられた、誰かのスマショを蹴ってしまったのだ。
 拾い上げると幾つかきらきらとしたストーンが落ちる。画面には罅も見られず、誰かの手から落ちたとしても運が良かった。
「誰の?」
「知らねえ」
「落とし物か。交番持ってこうぜ、確か駅前にあったはず」
 こんなにゴテゴテと飾り付けて使いにくくはないのだろうか。いかにも、アレクサンダーの苦手とする生き物の好きそうなものだ。かといってスマショのような個人情報が満載のものをそのままほうっておくわけにもいくまい。手続きなどはカヅキにやらせればいいかと、何も考えずに足を踏み出して。
「……」
 植え込みから、尻が生えていた。つい今しがた足を止めていた二人から見えなかったのは、その植え込み自体がテラス席の影に隠れていたからだ。仕立ての良さそうなスーツに、高そうな革靴。頭から植え込みに突っ込んだそれは、ピクリとも動かない。なかなかどうして行き交う人も声をかけることなく、もしかしたら誰かが既に救急車を呼んでいるのかもしれないが、それにしても誰も近寄らない。
「あの、大丈夫ですか」
「おい待て」
 面倒くさい、という周りの声が聞こえるようでアレクサンダーも激しく同意したかったのだが、こういうときに進んで声をかけてしまう善人が、他でもない仁科カヅキという男だ。押し付けがましい善意。それを振り払われても今はそれがいらなかったのだろうと勝手に判断する。そうやって、アレクサンダーに何度も何度も声をかけてきた。鬱陶しい、しかしそれがいつしか無くてはならないものとなってしまった。いつの間にか、心のなかに勝手に居場所を作って居座っている。
 とはいえ一度声をかけた相手を放っておくほどアレクサンダーも無情ではない。カヅキに感化された部分もある。全く反応のないその尻に途方にくれたカヅキの視線を受け、デコられたスマショを渡すと、アレクサンダーは植木に手を突っ込んだ。
 髪が長いらしい。毛先が手を擽る。さわり心地の良いジャケットはやはり質がいいのだろう。しかしそんなことは知ったことではない。完全に頭を突っ込んで、よくよく聞いてみればいびきをかいている。完全に酔っ払いだ。カヅキにはこんな酔っぱらいにはならないでほしい。
「オラッ」
 首根っこを引っ掴み、一気に引き抜いてやって、そうして現れた人は。
「クーさん!?」
 見間違えるはずもない、カヅキが憧れて同じ色にしたという銀髪、黒縁の眼鏡。褐色の肌は植木に突っ込んだときか、今アレクサンダーが引き抜いたときにかできたらしい引っかき傷が幾つか刻まれている。
 アレクサンダーとカヅキ。二人の憧れのその人が、気持ちよさそうに眠っていたのだった。





 流石に飲みすぎたと痛む頭を抱え、起きた黒川はいつもと違う部屋の様子に首を傾げた。そもそも、どうやって帰ってきたのだろうか。昨日、良い時間まで飲んだことは覚えている。しかし、帰ってきた記憶がない。帰巣本能というやつか。しかしそれにしては様子がおかしい。なにせ寝室の向こうに、人の気配があるのだ。
 誰か女の子でも持ち帰ったのか、だったら隣で寝ててほしかった、なんて残念な気持ちが心を満たしていく。誰だろう。金髪ボインか、アメリカから来たって言ってた黒人系の美女か、彼女たちと一緒に飲んでた清楚系か。どれでもいいなぁ。――なんて、浮かれていられたのはほんの数秒のことだった。
「あっクーさん起きた。おはようございます!」
「はざす」
「……おはよう……」
 なんと部屋の中にいたのは野郎だった。しかも二人。明るくて元気な挨拶が頭をガンガンと揺らしてくる。知らない間柄でないことを喜ぶべきか悲しむべきか。しかも内ひとりは未成年だ。もしかしてヤバイことやっちゃった? 脳裏を駆け巡る想像に、しかしよく考えたら服は緩められてこそいるが、脱いだ形跡はない。くたびれているものの、そういう汚れもない。彼らにも、そういう雰囲気は一切ない。
「なんで君ら……?」
 顔を見合わせた二人は、彼らもよくわかっていないようで「クーさんが寝てたから」だの「植木に突っ込んで」だの「担いだ」だの、困惑を滲ませ支離滅裂だ。とりあえず顔を洗ってくるからとリビングをあとにすると、二人は素直に見送ってくれた。洗顔石鹸が染みて、顔をよく見たら小さな擦り傷や切り傷ができている。接客業としてはあまり好ましくない。今日が休みでよかった。
 そして二人に聞き出した黒川が、曲がりなりにも憧れてくれる後進の前でくらいは格好つけていようとかぶっていた皮をかなぐり捨てることになり、そうしたら放っておけないとばかりに二人に構われるようになるまでに、そう時間はかからなかった。

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