Darling


 最後に言葉を交わしたのは一週間前のことだ。ゴールデンウィークの直前、アレクサンダーはつい先日シュヴァルツローズが契約をもぎ取ってきた専属モデルの初仕事で海外に飛び立った。なんとかという有名な海の綺麗な浜辺での撮影らしく、初日には確かに沖縄顔負けのうつくしい写真が送られてきた。それこそ旅行番組や写真でしか見たことのない風景に「すげえ!!」と間を置かずに返信をしたら、「興奮しすぎだろ」とアレクサンダーのニヒルな笑みが目に浮かぶような短い文が戻ってきた。数時間休んでから撮影に入るというアレクサンダーの邪魔をするのも本意ではなく、それ以降は時差もあってまともに連絡をとれていない。日本から出たことのないカヅキは、そのメールを何度も開いては海外に、そしてそこで撮影しているのだろうアレクサンダーの姿に夢を馳せていた。
 もう時刻は夜の十時を回ったころだ。終業時刻と終電の谷間のこの時間、すっかり人の姿の減った電車に揺られながらスケジュールを管理しているアプリを閉じると、カヅキはポケットに放り込んでいる鍵を撫でる。
 帰国日は、連休明けの予定だと言っていた。シュワルツローズへの報告もしなければならないだろうから、アレクサンダーが休めるのは早くて帰国した翌日だろう。連休中はカヅキもプリズムショーの予定が組まれており、久しぶりにヒロとも踊ることができそうだった。なんだかんだと言いながら一日に一度は声を聞いていた相手がいないとなると、どれだけ忙しくしていようとも、どこか物足りなく感じられてしまう。連休の仕事が落ち着いたら、どこか二人でふらっと遊びに行ってもいいかもしれない。どこだったらアレクサンダーも誘いに乗るだろう。悩むといつも踊れる場所に足を向けてしまうのだから、まったくもって似合いのダンスバカだ。

 できれば、今日会いたかった。声の一つでも聞けたら満足だった。
 夕方に終わった収録、その現場でカヅキはその誕生日を祝ってもらったのだった。五月五日、こどもの日。鯉のぼりの突き立てられたケーキをみんなで食べて、即興のハッピーバースデーをなるが踊ってくれた。日付が変わった頃からあんやわかなをはじめ、多くの人からメッセージをもらい、両親からも大きな愛情を受け取り、なんて幸せな誕生日だろうかと頭ではわかっているのに、本当に今欲しいものは手に入らない。無茶なことを考えている、まるでらしくない。番組の中でセッションを興じたヒロは事情を察したらしく、祝いと食事の誘いがあったが、上の空で行くのも申し訳なくて今度の約束を取り付けた。快く応じてくれたヒロに感謝しなければならない。
 夜風に当たりたくて階段をひたすら昇る。高層階ではないが、小高い丘の中ほどに位置し、周りに高い建物がないおかげで三階も上がればそこそこあたりは見回せるようになる。遠くにシュワルツローズがきらきらとネオンを煌めかせていた。規則的に瞬く人工の明かりはどこか寂しさを思い出させ、冷たい風が頬を撫でた。
「元気にしてっかなー」
 こんなへろへろの声を知られたら、アレクサンダーはまたぶつぶつと言うのだろう、ストリート系の云々と。それでもいいから聞きたいと思ってしまうほどに、カヅキは今アレクサンダーに会いたかった。二人で好きなように踊れたら、それが一番最高なのに、その相手が今は遠い海の向こうにいる。そもそも、アレクサンダーに誕生日の話をした覚えもなかった。我ながらどうしてこんなにも女々しくなるのか、恋愛はまるで恐ろしい怪物のようだ。


 プリズムキングカップが終わり、個人の活動が順調に動き出し落ち着いてきた頃、カヅキは実家を出て一人暮らしを始めていた。とはいえ今でも家業の手伝いに行くし、エーデルローズ所属のころから続いている仕事も継続させてもらっているし、その傍らでプリズムショーもコンスタントに行っている。ゲリラライブ形式で行うそれに、アレクサンダーが闖入してきてダンスバトルになるのも最近では恒例のこととなっており、そのたびに見るものを沸き立たせていた。型にとらわれず、自由に踊る。先達である黒川冷の協力を得られたのはカヅキをはじめ、ストリート系と呼ばれるプリズムスタァにとって何よりの僥倖だった。無論、カヅキが小さな頃から踊っていた高架下に足を運ぶこともある。多くの人にプリズムショーを知ってもらいたい、プリズムのきらめきを届けたい。その思いにアカデミー系もストリート系も関係なく、そんなカヅキの行動は友人をはじめ多くの人々に支えられていた。
 アレクサンダーとは、その中で何度もぶつかり合った。時にあの高架下で、時にステージの上で、そのたびにカヅキを飲み込もうとするアレクサンダーの強さは、足元を突き崩される不安を覚えさせたものだ。今ではそこを飛び越え、新たなステージに立っている。本気での勝負は互いのことを多少なりとも知らしめた。ただ戦うだけの相手ではなくなったのはその頃からだ。弾かれるだろうと予想して差し出した手は握り返され、親交が生まれた。そこから惹かれていくまでのことは、思い出せば恥ずかしさと愛しさで穴に入りたくなる。気付けばアレクサンダーを目で追いかけていた。誰かとバトルをするダンスには目を奪われた。渡米したコウジの「それが恋だよ」と当事者ならではの説得力を併せ持つ言葉でカヅキの世界は一瞬で塗り替わってしまった。幸いなことにアレクサンダーもまた同じで、ゆっくりと関係は始まった。不慣れな恋愛に戸惑うことも多いが、幸福を感じる瞬間を思い出すたびにカヅキは今日も一歩を踏み出せるのだ。
 ぼんやりとしているうちにすっかり冷えてしまった腕をさすりながら階段を駆け上がり、五階の角部屋に飛び込んだ。南向きの日当たりの良さで決めた、カヅキの借りた部屋だ。スケートボードを立てかけた玄関は北側にあるせいか、暗く空気もひんやりとしている。扉を閉めれば決して広くはないが、居心地の良い空間を作ろうとして、今は少しずつ組み上げているところだ。靴を脱いで上がろうとして、ふとカヅキは動きを止めた。三和土にはよく履く靴――今カヅキが履いている靴しか出さないようにしている。玄関に靴がたくさんあると運気が下がるのだとか、誰かから聞いたこともある。三和土にある数少ないものといえば残るは傘立て、しかしそれは壁際においてあるし、立て掛けているスケートボードも倒れていない。
 ならば、つま先が当たったものは一体何か。
「……っ」
 脱ぎかけだった靴を放り投げ、カヅキは数歩の距離を駆け抜けた。鞄を放り投げ、数歩の廊下がもどかしい。その先の扉の向こう、真っ暗な部屋に、開けっ放しだった窓から月明かりが差し込んでいた。風に乗ってカーテンが揺れ、幾重にも重なる影を生み出す。四角い影が半ば程までかかる、部屋の真ん中にあるソファはヒロとコウジからの引っ越し祝いのソファだ。わざわざ内装を見に来てから決めてくれたおかげで、周りから浮くこともなく、なにより色も座り心地も気に入っている。ぱぁっと明かりをつけると、そんなカヅキが寝転がる事もできる大きなソファの肘掛けから、二本の足が生えていることに気がついた。もはやその正体について、誰何する必要などない。
 踝丈の黒いソックス、足首を見せるデザインなのだろう、濃い色のトラウザーが続く。見覚えのあるベルト、ジャケットは肘の下までまくられていて薄っすらとボーダーらしい模様の見えるシャツが無造作に折り曲げられていた。どんな服も暑いのかキツいのか、まくってしまうのがこの男だ。チェーンのネックレスがたぐまっている胸元は静かに上下していた。部屋の片隅にワインレッドのスーツケースが転がっている。荷物の預け札までそのままで、きっと空港からこの部屋まで真っ直ぐにやってきたのだろう。アレクサンダーのスマショはソファのすぐ横の床に落ちていた。ちかちかとLEDの点滅しているのを拾い上げると、画面が反応してロック画面が現れる。見覚えのある写真が現れた。カヅキと先日ふらりと出掛けた先の観覧車の写真だ。その中にカヅキの後ろ姿があった。いつの間に撮ったのだろう。そっとテーブルに戻し、ラグの上に座り込むとふわりと知ったそれと、知らない匂いがした。
「……アレクサンダー」
 どうして、とか、いつ、だとか、さっきまでカヅキを支配していた感傷だとか、連日のプリズムショーの疲れだとか、全てがどうでもよくなった。現金すぎる自分に呆れすら覚える。
 腹の横に頭を載せると何にも遮られずに見える、一週間にも及んだ撮影に疲れているのだろう、眉間に皺を作ったまま眠っているアレクサンダーの寝顔に口元が綻んでいく。ソファから滑り落ちた手はあたたかい。カヅキの腕を簡単に掴めてしまう大きな手が、壊れ物を扱うようにそっと触れてくるとき、カヅキは喜びと恥ずかしさ、物足りなさ、たくさんの感情が綯い交ぜになった重くてやわらかなものに包まれるような感覚に襲われるのだ。
(ああ、ああ、おかえりアレクサンダー)
 連絡の一つでも寄越してくれたら、他のみんなの誘いもありがたいながらも振り切って家に帰ったのに。単に早く帰国したかったからなのかもしれない、なにせアレクサンダーがカヅキの誕生日を知っているかどうかはわからないのだから。それでも構わなかった。夜風に冷えた身体が、アレクサンダーの手に触れるだけでじんわりとあたたかくなっていく。
 それからどれくらいそうしていただろう。開けっ放しの窓からひゅうと吹き込んだ風がカヅキの背を撫で、やっとぼんやりと浮かされるような感覚からフローリングに足がついた。窓とカーテンを閉め、出会った頃から比べると少しシャープになった頬に触れる。静かな寝息ばかりが厚めの唇からはこぼれ落ちている。
 明かりをつけても全く起きる気配のなかったアレクサンダーの眠りは深いのだろう。起こすのも忍びなく、かといってベッドに運ぶにはアレクサンダーの体格はカヅキの手に余る。ブランケットをそっとかけて、照明を落とす。暗闇の中でも、夜は明るい。彫りの深い顔立ちにうっすらと影がかかり、まだ十代とは思えないセクシーさが匂い立つようだった。
(睫毛長いな……鼻高いし、首太くて、かっこいい)
 太く力強い眉の下、閉じられた瞼の下には宝石のような紫の瞳が隠されている。憤怒に満ちぎらぎらと輝くのも、和らげた目元に浮かぶ静かな輝きも、情欲に濡れカヅキを囚えて離さない蜜のようなとろりとしたまばゆさも、全て同じ瞳の持つ光だ。初めて射抜かれた瞬間をカヅキはきっと忘れることはないだろう。カヅキの中にアレクサンダーという存在を刻みこんだのは、紛れも無いそのダンスと強烈な煌めきだった。
 早くまたその瞳に映りたい、自分だけを映して欲しい。昔はそんなこと露とも考えることはなかったのに、恋とはげに恐ろしいものだ。
「アレクサンダー、俺、お前が好きだよ」
 ソファの横にだらんと垂れた腕を戻し、爪の先まで整った指にキスをする。お前が起きたら、俺のためじゃなくても帰って来てくれてありがとうと、それからお帰りを言おう。



***



 目を覚ました時には部屋の中はすっかり暗くなっていた。
(しまった)
 慌てて起き上がろうとして、すぐに腹のあたりと手が温いことに気付く。上体を起こそうとして滑り落ちたのは見覚えのある毛布だ。
(……しまった)
 ソファに寄りかかり、不安定な姿勢で仁科カヅキが眠っていた。その右手がアレクサンダーの指に絡み、吐息を感じるほどに口元に近く寄せられている。柔らかそうな唇に触れたくなった。キスがしたい。よく笑うそれを塞ぎ、口の中をいっぱいに舐めて舌を吸いたい。
 身体を起こすと少し目眩がした。時差ボケか、仕事先で眠れなかった反動か。湧き上がった衝動はすぐに鳴りを潜め、額を押さて纏わり付く不快感を振り払うと、放り出していたスマショをなんとか手に取る。ちかちかと点滅するLEDがメールやアプリの着信を知らせてきていたが、そんなものは今どうでも良かった。時刻は日付を跨ぎ、二時を過ぎている。
「shit……」
 何のためにスケジュールを調整したのかわからない。カヅキの創りだす心地よい空間に足を踏み入れた瞬間の誘惑に負けた自分を殴りたかった。しかし、時間は巻き戻せないし過去にも戻ることはできない。
 もう時間も時間で、仕事帰りのカヅキも疲れているはずだ。やわらかなラインを描く頬を撫でると、そっと小柄な体躯を抱き上げる。スカジャンにカットソー、ハーフパンツという夜にしては薄着のくせに、どこかぽかぽかとしているのは子供体温だからなのだろうか。勝手知ったると寝室のドアを足で開き、カヅキが一人で寝るには広いだろうベッドへと横たえる。
 一人暮らしをすると言ったカヅキが、家具を選ぶから付き合ってくれとアレクサンダーを引きずり回したのは記憶に新しい。その頃には、一応、恋人としての関係となっていたし、「デートみたいだな」というカヅキに悪い気はしなかった。ソファは神浜コウジと速水ヒロから贈られることがわかっていたから、それ以外のものを選ぶ間に、なるほどカヅキを一人で来させなくて正解だったとアレクサンダーは独り言ちたものだ。あれもこれもと勧められるがままに買いそうになる。何が必要なのかはわかっているはずなのに、別のものに目が行ってしまう。後で聞けば、誰かを連れて行けと前述の二人に言われたそうだった。流石に仁科カヅキのことをよくわかっている。
 そんな経緯で選んだベッドは、アレクサンダーが横に滑り込んでもなお余裕のあるサイズだった。ハーフパンツはゆったりとしたものだからそこまで寝苦しくはないだろうと上着だけを脱がせ、アレクサンダーはジャケットもシャツも、トラウザーすらも脱ぎ捨てた。どうせ温かいのだ、カヅキの隣は。畳むのもそこそこに、すうすうと静かに寝息を立てているカヅキを抱き込むと、触れられた感覚はあるのだろう、「んん」とカヅキが小さく身動いだ。瞼が持ち上がりそうで、ぎゅっと瞑られている。
 起こしてしまっただろうか。ぎくりと動きを止めたアレクサンダーの前で、普段はきりりとした、それでいてアレクサンダーにしてみれば大きくて可愛らしい瞳を縁取る睫毛が震えた。
「さーしゃ……?」
 現れたアンバーは蜜のように睡魔にとろけている。今はカヅキしか呼ぶことのない愛称がたどたどしく紡がれ、とろりとしたその声にぶわりと全身が喜びに総毛立つ。
「カヅキ、」
「あー、ほんものだ……」
 力の抜けた笑みは、まだ意識も身体も眠りの淵半分以上沈み込んでいるからだろう。指の背で頬を撫でると「んー」擽ったそうに身を縮こめた。ふにゃふにゃととろけた声は既にただの音になっている。それもそうだ、日付を跨ぐ頃には船を漕ぎ始めるカヅキがこんな時間に起きていることなんて滅多にない。寝かしつけるように背を撫でると、ふわぁ、なんて綿菓子のような吐息すら上げてくる。
 全く、無防備にすぎる。ここにいるのが、どれだけ仁科カヅキという存在に心を奪われて仕方のない男なのか、カヅキはわかっていない。ただでさえ一年前は全く気付くことなく終わってしまった日のために戻ってきたのだ、それなりの事をしたかったのに、寝落ちはない。ないったらない。しかも起きたらカヅキが直ぐ側で眠っているし、一週間の禁欲生活ではちきれそうなリビドーに身を任せたくなる。
 その衝動を三度の深呼吸ですべて飲み込むと、アレクサンダーはその額にキスを落とした。
「もう少し寝とけ」
「うん……おかえり、サーシャ……」
 ちゅ、と音がしたのは空耳だったかもしれない。カヅキの少し乾いた唇の感触は一瞬だったが、肌の上に焼き付いたように消えることがない。そのまま猫のように丸まってアレクサンダーの腕の中にすっぽりと収まってしまう。背を抱くと収まりのいい場所でも探しているのか、むずがるように身動いだ。「んん」だの「ぁぁ」だの、寝る間際の悪足?きのような音は次第に小さくなっていく。もうすぐに眠りに落ちるのだろう。背を撫でるとくふんとカヅキの口から溜息が零れ落ちた。
「happy birthday to you, happy birthday to you...」
 せめてもと低く甘い歌声が部屋に満ちていく。掠れたそれは、まるで子守唄だ。
 瞼を閉じたカヅキからすうすう寝息が聞こえるようになると、触れた場所から温もりが広がっていく。そして、アレクサンダーの意識もまた微睡みに沈み始める。
「happy birthday dear Kaduki……ただいま、My Dear」
 もう何年も言ったことのなかったそれを再び言うようになったのはいつからだったか。カヅキの部屋に来るときは、いつだってただいまと言って、カヅキもまたおかえりと返してくれた。きっと、アレクサンダーの愛しいという感情を形にしたら、仁科カヅキになるのだ。仕事や旅の疲れも一瞬で吹き飛ばしてしまったたった一言に、アレクサンダーもまた押し寄せる睡魔に身を任せたのだった。











 とても幸せな夢を見ていた。アレクサンダーに抱かれながら、ハッピーバースデーを歌ってもらって、たくさんキスをした。目覚めてしまうのが余りに惜しく、耳に残る優しい歌声をずっと聞いていたくなる夢だった。
 カヅキが目を覚ましたのは移動した覚えのないベッドの中だった。あたたかく、いい匂いに包まれていた。人の温もりと、その正体をカヅキは知っている。
「……アレクサンダー……」
 腹に確かな重みがかかっている。目の前には褐色の肌が広がり、静かに上下している。髪がささやかな吐息でさわさ
わと揺れる感覚。まだ寝ているらしいアレクサンダーに抱き込まれているのだとカヅキが気付くまでに数秒、ゆっくりと見上げればそこには予想通り、彫りの深い男前が目を閉じて眠っていた。
 彼が運んでくれたのだろう、それ以外にない。カヅキも軽くはないというのに、平然とそういうことをやってのけるのは羨ましくある。
 起こさないようにそっと幸せな檻から抜け出すと、カーテンの向こうにうっすらと光が見えた。夜明けが近いのだろう、空が白んでいる。窓を開けると冷たい風が寝起きの肌を撫でた。意識がはっきりとしていく。今日は一日オフだ。本当は今日帰国する予定だったアレクサンダーを迎えようと予め空けておいたのだ。アレクサンダーの家で、上手いとはまだ言えないけれど軽い食事くらいなら作れるようになっているし、それであの美しい風景の話を聞きたかった。
 寝室に戻るとアレクサンダーはまだ眠っているようだった。若草色の髪は柔らかく指の間をすり抜けていく。疲れているはずだ。しかし、触れていたかった。久し振りの恋人なのだ、足りない分を補充したい。そんなカヅキの手にアレクサンダーは意識を引き上げられたのか、瞼が震えぼんやりとした紫色がカヅキを捉えた。
「……カヅキ」
「はよ、アレクサンダー」
 寝起きの掠れた声を聞くのもいつぶりだろう。現れた紫眼が柔く細められ、伸びてきた腕に引き寄せられるままにキスをした。裸の胸に折り重なり、頬を撫でられながら指を絡める。唇をすり合わせ、首の後ろに回った手にぞくぞくと背筋が震える。ちゅ、ちゅ、と重ねるように繰り返されるキスが気持ちいい。ベッドに乗り上げるとごろりと転がされ、アレクサンダーが上になった。逞しい腕に閉じ込められ、額や瞼、鼻に頬にと口付けの雨だ。耳の後ろから首の間にすっとした鼻筋が摺り寄せられ、カヅキはアレクサンダーの背を抱く。
「おかえり、アレクサンダー。仕事、早く終わったんだな」
 お疲れ様と背を撫でると身体を起こしたアレクサンダーが怪訝そうな顔をしていた。
「五日に戻るってメールしただろ」
「? 来てねえけど……」
「ンなはずねえよ」
 眉を顰めたアレクサンダーが脱ぎ捨てていた服からスマショを探し出し、しかし、あ、と間抜けな声を上げた。一転してその表情にはバツが悪いとでかでかと書いてある。
「……送信完了してなかった」
「サーシャは変なとこ抜けてるよなぁ」
 スマショを投げ出すぽすんという音とともに、カヅキはアレクサンダーの頭を抱き寄せて草原を思わせる柔らかい髪をぐしゃぐしゃと撫でる。アレクサンダーは大人しくされるがままで、カヅキはそんな彼がひどく愛おしかった。
「ありがとな」
 五日ってことは誕生日に間に合うように、という意図であることは間違いない。少しでも祝おうとしてくれた気持ちだけでカヅキは十分に嬉しくてたまらないのだ。アレクサンダーがそういうところがマメなのかどうかはまだわからないが、カヅキのために行動してくれたという事実は事実なのだから。
 ぎゅうと胸に抱いたアレクサンダーがため息をついて、ぐりぐりと額を押し付けてくる。照れ隠しか、短い髪の影で耳が赤くなっている。
「今日はオフ?」
「……そうだ」
 くぐもった返事にカヅキはじゃあさ、とアレクサンダーの頬を両手で挟む。
「デートしよう。買い物とか、美味いもん食って、どっかで踊るのもいいよな。それから、あの写真の海の話聞かせてくれよ」
「……いいのか、それで」
「ああ。……まあ、もうちょっとベッドでごろごろしてるのもいいかも」
 朝早いし、まだどこも開いていない。今外に出たら早朝ランニングになってしまうだろう。それはそれでありかもしれないが、今日はそういう気分ではなかった。
 頬に掠めた口付けの意図は伝わったのだろう、アレクサンダーが布団を捲り上げカヅキと二人で再び潜り込む。抱き合って触れて口付けて、最近アレクサンダーの見せるようになったとろけるような瞳に見つめられる。
「……なあ、もう一回、聞きたい」
 お前の歌ってくれるハッピーバースデー。きっとあれは夢ではなかった。夢だけど、夢じゃなかった。
「happy birthday, カヅキ」
 頷いたアレクサンダーの唇から紡がれるそれは、微睡みの中で聞いた優しい歌声と同じ――

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