そう、だと気がついたのはいつのことだったろう。その時にはもうしばらく三人で食事をしていなかった。
栄養バランスだけを考えた味気ない食事を一人で摂取する。箸が皿と口を往復し、椀を啜り、本の通りに作ったそれをひたすらに口に運ぶ。まるで作業だ。笑い声も、温もりもない。オバレとして活動する前に戻ったみたいで、そう、一人で過ごしていた頃に戻ったのだと思えば少しは気が楽になった。コウジやヒロと過ごした日々は目まぐるしく、しかし楽しくて輝いていた。それぞれの道を往くと決めてからもそのきらめきは色褪せることがない。たまに三人でスカイプをして、どう過ごしているかとか、新しいジャンプのことだとか、話すことはなくならない。カヅキにとってそこは間違いなく一つの居場所だった。離れても心は一緒に。Over The Rainbowはそんな場所だ。
その傍らで、もう一つ手に入れたものがあった。手に入れたと思っていた、のだ。シュワルツローズに所属する唯一のストリート系プリズムスタァの、大和アレクサンダー。プリズムキングカップでぶつかり合って以来、話したり、踊る機会の増えたライバルだ。大会後はシュワルツローズを辞め、黒川の元へと身を寄せている彼は、カヅキが再び己のあり方を見つめ直し、どうしたいのかを考えさせられた存在。いわば、今のカヅキを作るひとつのきっかけだ。そして元祖ストリートのカリスマと呼ばれたひと。カヅキも、アレクサンダーもまたその人に憧れを抱いていた。黒川冷。一時は正体を隠し、新気鋭のプリズムショーを興した仕掛け人。プリズムストーンという店の運営とMCを兼ねたその人と、アレクサンダーと、カヅキの三人は、ストリート系という共通点から他の皆と比べ話すことが多かった。次第に三人で過ごす時間が増えていったのも、惹かれあった――そうだと、信じていたのも、不思議ではなかった。
家族とも、コウジやヒロとは異なる空気、友人と呼ぶにもどこか違う、緊張と、まぎれもない心地よさ。その二人のどちらかと過ごす時も、三人でいる時も、カヅキはひどく幸せだった。ふわふわとした気持ちに包まれる。あたたかくて、たのしくて、嬉しい。そう、二人が好きだった。二人もまた、カヅキのことを同じように好いてくれているものだとばかり、思っていた。
その男が現れたのは四月に入った頃のことだ。カヅキは大学に通う傍らで黒川の手伝いをしたり、家業に精を出して、もちろんプリズムショーにだって手を抜くことはしない。そこそこ忙しい日々を送っていた。疲れた体で家路を辿る。その途中の階段を上った先に、その男は待っていた。
「こんばんは、仁科カヅキくん」
聞き覚えのある声に、見知った格好。闇に紛れるような軍服に似たデザインの外套、ブーツがコンクリートをこつこつと叩く。
「なんで、あんたがここに……俺に、何の用だ」
名を呼んだのは、カヅキになにかしらの用件があるからだ。見上げるカヅキからは月を背負う男は逆光になって、その表情は窺い知れない。警鐘が鳴り響く。その男がかつて何をしたか、何をしようとしたか、忘れたわけではない。カヅキの大事な友人を傷つけた張本人だ。
「そんなに警戒しないで下さい、今日は君にお見せしたいものがあるんですよ」
「見せたいもの?」
「ええ。貴方の大事な……まあ、見るも見ないも、君の自由ですが」
一目で上質だとわかる生地に、舞台衣装の如き作りの、あまりにこの住宅街に不釣り合いな服を纏い、男はゆっくりと階段を下ってくる。睨むカヅキにも笑みすら見せ、何がその余裕を生み出しているのかわからないのが恐ろしい。裏を探るのは、得意ではない。
こつ、と同じ段にまで降りてきた男は、カヅキよりも頭一つほど背が高い。目を反らすのは負けたような気がして、日本人にはかけることが難しいといわれるモノクルの向こう側を睨みつける。視線が交錯したのはほんの僅かな時間だ。黒の手袋が、少し厚みのある封筒を差し出した。これを、君に。男のくちびるがそう動く。
手を伸ばしたのは、どうしてなのだろう。今までその男がしてきた所業を考えれば、そこに何かあるのは間違いがなかった。カヅキは封筒を受け取り、男はそのまま去って行った。あなたの、だいじな、なに? いつもならば心地よい疲れに浸りながら帰る道は暗く、足取りも重い。後ろを振り返っても男はいないのに、何かにずっと、見られているような気分だった。
そして。
「……うそだろ」
茶封筒の中に収められた書類と、クリップで留められた写真を見て、ざあ、と体が冷たくなっていく。その日の夜の記憶は、今もない。
その日から、定期的に仁科の名を抱いたポストに、宛名のない封筒が投函されるようになった。誰がそれをカヅキに見せようとしているかなんて分かりきっている。あの男??法月仁だ。一つ目の封筒の中身はぐちゃぐちゃにしてしまって、そのまま捨てたはずなのに、二つ目の封筒にはそれと全く同じものと、更に新しい日付の写真が入れられていた。三月末、そして四月の頭。
三日と間を空けずに投げ込まれるそれを、見なければいいのに、一度見てしまったものは忘れられなかった。笑い合う二人、真剣な表情をして踊るお前を見るあなたがいて、でもそこにカヅキはいない。次第にそれらは街中やどこか知らない場所で過ごす風景になり、自然に溶け込む彼らは肩を寄せ合って、歳離れた友人というにはあまりに近すぎる。
「この日は、用事があるから、って」
久しぶりに飯でもとどうかと誘ったカヅキに、アレクサンダーはそう答えた。無理矢理付き合わせるのは申し訳なくて、スーパーに寄って帰ったのだから覚えている。
「練習してた、なんて、しらない」
カヅキも一時は黒川の元で指導を受けた。といっても彼は踊る姿を見て、気になるところがあれば口を出してくる程度で、彼曰く指導とは呼べないただの素人の感想だ。カヅキにとっては偉大な先達の言葉は、何よりのアドバイスに違いなく、アレクサンダーにもまた同じことであるのは予想するに難くない。
「買い物……俺だって、くつ……」
いつの間にか新しくなっていたアレクサンダーのスニーカー。かっこいいなと褒めたら、嬉しそうに笑っていた。それを選んだのは、黒川だったのだと、二人で見に行っていたのだと、初めて知った。
カヅキも知っているコーヒーチェーン店で、ひっそりとしたカフェで、少し高そうなレストランで、カヅキの知らない公園で、車の中で、人混みの中で、彼らが過ごす姿が、何枚も、カヅキの目の前に積まれていく。年相応の笑顔を見せるアレクサンダーに、黒川も表情を緩ませている。
「こんなの、しらない……」
三人でいた日々はなんだったのだろう。二人が声をかけてくれたら、いつだって駆けて行った。カヅキの発案に、彼らが乗ることだってあった。三人でする食事は楽しかった。それを、カヅキが好きだったのを、彼らは知っていたはずだ。カヅキを呼ぶ二人の声が罅割れて、嘲笑うそれになる。
踊りに行こう、買い物に付き合ってくれ、飯は? そういえば、二人に最後にあったのは、三人揃っていたのはいつだっただろう?
親密さを隠さない二人の姿は、大事なものであるはずなのに、黒い炎に飲み込まれていく。今日は、二人はなにをしているのだろう。黒川に見て欲しい技があると言ったら、都合が悪いから来週でどうかな、GWの準備で忙しいんだごめんね。声すら聞けず、メールの返事は事務的なものだ。連休が明けたら、会いに行ってもいいのかな。そのときはアレクサンダーも誘って、久しぶりに、三人で。
そんなの、これを見てもまだ叶えたいと思うのか。否。
「俺、だけ、」
カヅキのいないところでどんどん関係を深めて、たまにカヅキにも構っておけばカヅキへの体裁も問題ないだろうって。
俺だって好きなのに、ちゃんと伝えているのに、受け取ったくせに。
はじめて、ほしいと思って、手を伸ばして、手に入れたと思ったのに。
気に入っていたクッションは中綿が飛び出していた。椅子は倒れ、本棚からは何冊も落ちてしまっている。修学旅行で買ったペンケースは割れ、小学生の頃小遣いを貯めて買った三強のポスターは、見るも無残に破れて、左側を残して床に落ちていた。手が痛い。知らぬ間に、切り傷がいくつもできていた。いつ、どこで、どうして、彼らはずっとカヅキをわらっていた。
「ああ、なんてことだ、怪我をしている」
夜の闇を固めた色をした瞳が、カヅキを見下ろしていた。それが瞠られたと思えば苦しげに歪み、痛む手を取りそっと包み込む。声が出ない。どうしてここに。
「チャイムを鳴らしたのですが返事がなく、しかし何かが割れる音が聞こえたので上がらせてもらいましたよ。こんな、怪我を……痛むでしょう、ああ、けれど君の心の方がきっと」
真っ白のハンカチが結ばれた手のひらが、まるで自分のものではないような気がした。目の下を指がなぞって、はじめてそこが濡れていることに気がついた。
「ちが、違う、これは」
「……大丈夫、怖がらないで」
ふと和らげられた視線が、カヅキを縛る。大丈夫、彼はもう一度繰り返す。なにが怖いのだろう。なにを怖がっているのだろう。だって、しらない感情が静かに燃え上がっている。赤々とした炎ではなく、闇に揺らめく、黒に飲み込まれそうなそれは、なにを糧にしているのだろう。
「君ほどの男を嗤うなんて……」
悔しさをにじませ、言葉を噛む男がフードに隠れていたカヅキの顔を、露わにさせる。ぽろぽろと、もう止まることのない涙が頬を濡らし、床に雫となってはじけて消える。
ふわりと薔薇の香りに包まれ、同時に背にあたたかな手のひらを感じた。熱を持ち始めた瞼に触れる指先は冷たい。手の冷たい人は、なんだっけ。目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、心底欲していると、やっと気が付いた存在の姿だ。
「強くなりなさい。力があれば手に入る。もう貴方を嗤う者などない」
そのための力を貸しましょう。私の持てる全てで君を強くしてみせる。
「だって、私だけが君のことを理解できるのですから――」
その手を取ったのは、自らの意思だった。
仁科カヅキが失踪した。それを彼らが知ったのは、カヅキの誕生日を目前に控えた、四月最後の日のことだった。
ゆずさんのこちらのまんがを見て書きました。忍び寄る仁カヅの波。
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