しるし

 夜中に目が覚めたのは、夢を見たからだ。どんな夢だったかは覚えていないけれど、隣で眠るひとが出てきていたのは間違いのないことで、いやな夢を見た後の心臓の落ち着かない感じもないから、それはきっと悪いものではなかったのだろう。腹の上に乗った腕からそっと抜け出し、枕に散った銀髪はさらさらとしていて、カヅキの手をすり抜けていってしまった。
 黒川は深く眠っているようだった。昨晩は、久し振りに黒川に抱かれた。常に流行を生み出すショップの運営は楽ではなく、他のスタッフに支えられているとはいえ繁忙期には泊り込むこともある。一つの企画が終わればすぐ次に。休む間もないのだと、彼と付き合うようになってから知った。そんなイベントとイベントの中休み、彼は疲労を滲ませながら遅くに帰宅したのだ。大学の帰りに今日は帰れそう、そんなメッセージを受け取った時、カヅキは電車を飛び降りてこの部屋に向かっていた。やっと慣れてきたキッチンで簡単な食事を用意して、二人で風呂に入って、それからベッドに雪崩れ込んで。カヅキを上に乗せて動いて、と彼は言った。もしかするとカヅキがいたから、少し無理をしてでも応えてくれたのかもしれない。申し訳なさに襲われながらも、喜んでしまう自分に嫌気がさす。
 寂しいだとか、もっと一緒にいたいだとか、カヅキは絶対に口にしないと決めていた。黒川の生活を見ていればそれがいかに難しいことなのか、痛いほどに感じるのだ。その中で時間を作ってくれていることを、理解している。好きだと、大事にされていると感じられるからこそ、言うべきではない。無理をして欲しくない。自分は十分に愛されている。昨日も一度でも繋がれただけで幸せだ。足りないとは、思わない。痕一つ残っていない身体はさっぱりとしていて、いつものように意識を飛ばしてしまったカヅキを黒川はちゃんと清めてから、眠りに就いたのだろう。

(疲れてるのに)

 肌の色が濃いせいで分かりにくいが、目の下にはうっすらと隈ができている。せめて今だけでもゆっくりと休んでほしい。静かに上下する肩にずり下がったブランケットを掛け直し、カヅキはベッドを降りたその足でベランダに続く窓を開けた。ひやりとした朝の空気が肺に流れ込む。日の出前の空は深い青に染まり、高いところではまだ星が瞬いていた。都心でも、数えるほどの星は見えるのか。遠く東の果てから金色の光が差し込んで、もうじきに太陽が昇るのだろう。手すりに寄りかかり、白んで行く境界をただ見つめていた。
 からり、と音がしたのは空の色がだいぶ薄くなってきた頃だ。といってもカヅキが外に出てから十数分と経っていない。振り返る前に、「きれいな夜明けだね」温もりが被さってきた。

「起こしちゃいましたか?」
「ううん、最近早かったからかな、目が覚めたんだ。隣に君がいなくて焦った」

 風が入ってきたから気付いたのだという黒川の手が、手すりから垂れたままの手に重なる。額にかさついた唇が触れ、見上げると今度は口を吸われた。ちゅ、と小さな音だけを残して離れていく黒川の身体は、そこまで身長は離れていないはずなのに一回りほども大きく感じる。厚みが違うのだろうか、肩に頬をすり寄せ背を抱くと、完成された大人の男の身体だと分かる。

「っ、」

 息を呑んだ。僅かに眉間に寄った皺は、しかしすぐに見えなくなる。「冷さん?」首を傾げたカヅキに黒川はなんでもないよと笑みを見せた。とはいえ触れただけでそうなるのだ、なにか背にあるのには間違いない。くるりと身体の向きを変え、腋の下から覗き込んで、カヅキはびしりと動きを止めた。
 平行に並んだ赤い筋が、浅黒い肌に刻まれている。真新しい引っ掻き傷だ。それがいつ、どうやって黒川の背に生まれたかなんて、考えるまでもない。

「すみません」
「大事なものだよ、俺にとってはね」

 指を絡めた手が持ち上げられ、決して伸びているわけではない爪の先に唇が押し当てられる。儀式みたいだ。うつくしい朝日の中で、指の一本一本に黒川は口付ける。そうやってカヅキを捕らえる手は男らしい骨ばったものだ。右手の薬指にはカヅキの贈ったリングが嵌っていて、きらきらと光を反射していた。贈ったその日から、彼はずっとそれを身につけてくれている。その逆の手、カヅキの左手の薬指。黒川が手のひらを合わせて組まれた指の、付け根。あけておいてと言われたことを、カヅキは忘れていない。いつかここに、カヅキは黒川冷のものだという証がつけられる。
 しかしその日は未だ訪れず、不安こそないものの、不満ではあるのだ。だから、カヅキはふと思いついたことを口にしてみることにした。

「冷さん」
「なんだい?」
「痕、つけてください。見えないとこならいいでしょ?」

 よくよく思い出してみると、黒川は今までカヅキの身体に一切の痕を残したことがない。カヅキは無意識のうちに噛み跡やら引っかき傷をつけてしまうのに、だ。理由を聞いたこともないけれど、何か思惑があるのだろうとカヅキも気にしないようにしていたが、カヅキのつけたものをそう言うならば、同じものを求めたところで彼はその意図を汲んでくれるはずだ。
 果たして彼はぱちぱちと翡翠の瞳を瞬かせ、解いた手で頬を、首を、肩へと辿っていく。普段カヅキの着るような服の、襟のラインをなぞり、その一点で止まる。

「グラビアとか、仕事は大丈夫?」
「大丈夫です。それに、俺ももう二十歳過ぎたんです。そういう相手がいてもおかしくないんですよ」
「そう、だね。そうか……」

 いざとなればメイクの人に頼めば、というのはコウジから言われたことでもある。だから、と言い募る前に銀の髪がさらりと流れた。暖かい腕に腰を引かれ、「ぁ、」濡れた音が肌に落ちる。一つ、二つと音が重なり、その度にカヅキは小さく身体を震わせた。

「れ、冷さんっ」
「……んー?」

 それが片手の指を超え、両手に達しようとしたあたりで、上擦った声が黒川を呼んだ。見れば姿を現した朝の太陽の中で、カヅキが顔を真っ赤に染めていた。自ら求めながら、困惑もあらわな様子に悪戯心が擽られていく。

「な、なんで」
「一つって言わなかっただろ」

 そしてまた一つ、褐色の肌に赤が散る。金魚のように口をはくはくとさせて、言葉もなくされるがまま、結局カヅキが立てなくなるまで黒川の悪戯は続いた。見えないところに赤い花を咲かせる――一つしてしまえばきっと止まらなくなる。再びベッドに沈んだカヅキに、黒川はそう囁いたのだった。

-Template by Starlit-