初めての恋も、キスをしたのも、他の人としないで欲しいと思ったのも、セックスも、全部彼とだった。成人して初めて飲んだ酒は、彼の作った世界で一つだけのカクテルだ。彼と付き合って約二年半。それだけの間に、いったい幾つの初めてを経験しただろう。年齢を経るごとに減っていく初めての経験を彼と過ごせたことは、何よりも嬉しい、幸福な記憶だ。
成人式の一ヶ月半前、もう間もなく師走に入るというぐんと忙しさの増す時期に、彼が時間を縫って連れて行ってくれた店は、こじんまりとしたテーラーだった。かつてプリズムスタァだった彼が、今も衰えない身体を包むスーツを仕立てた店なのだと、店主に紹介されながら教えてもらったものだ。既製品ではサイズがどうも合わなくて、そして見つけた店なのだと。流されるままに採寸され、仮縫いができたら連絡を入れますと老店主ににこやかに見送られ、店を出るまでカヅキはずっとぼんやりとしていた。夢のような世界だったのだ。数え切れないほどの種類の布やボタン、デザインも好きなものをと言われてもわからなくて、結局彼に、黒川に決めてもらった。彼の選んだものは、彼のよく着ているスーツに似ていながら細かい部分の違うデザインだった。
「なんであの店に?」
きっと似合う、間違いない。そう言って店を出た黒川に聞いたのは、ごく自然なことだろう。君に仕立ててあげたいんだ、黒川はそう話していた。とはいえ誕生日はとうにすぎ、今はクリスマスというには早すぎるし、仕立て上がる時期を考えるとクリスマスは過ぎてしまう。なんでもない時期にもらうにしては、随分と安くない代物である。
「成人のお祝いだよ」
「? お酒飲ませてもらいましたよ? 誕生日にこれも貰ったし……」
カヅキの腕を飾る赤茶の革のブレスレット。小さな石の嵌ったそれは、カヅキの言葉の通り、黒川が数ヶ月前のカヅキの誕生日に贈ったものだ。その日から、ほとんどの時間をカヅキと過ごしているそれは、少しずつ色が深く、滑らかになっている。しかし、黒川がしたいのはそういうことではないらしい。ううんと眉を寄せ、言葉を探す。
「そうじゃなくてさ、あー、なんて言えばいいかな……節目のお祝い。誕生日とはまた違うっていうか。スーツはあって困るものでもないし、いいから年上の彼氏に甘やかされてよってこと」
煌びやかな世界にいたとはいえ、金銭感覚は庶民のそれであるカヅキにとって、あまりに高額なものを貰うとなると気が引けてしまうのだが、黒川のお願いには弱い。いつか同じくらいのものを返そうと決めて、カヅキは頷いたのだった。
二週間後に仮縫いを終え、そのスーツを受け取ったのはもう年の瀬も迫る日のことだった。黒川はプリズムストーンの最終日で忙しく、カヅキ一人で受け取りに向かったテーラーは、これで仕事納めなのだという。
「黒川さんは、あなたのことをよく見ているのでしょうね。よくお似合いです」
初めて黒川がこのテーラーを訪れた時のことや、一着目のスーツのこと、散々迷って決めたそれを今も大事に着ているということ、いろんな話を聞いた。本人がいたら、きっと聞くことができなかったカヅキの知らない黒川の姿。その中でも、最後にスーツとともに渡されたその言葉が嬉しくて、丁寧にたたんでもらったスーツを宝物みたいに抱きしめて、カヅキはその足で黒川の家へと向かったのだった。
年末年始は二人で過ごし、仕事始めや大学の授業も再開し、すぐに迎えた成人式の日。小学校からの付き合いの仲間たちは袴で参加するというものもいたが、カヅキはスーツを選んだ。例の、黒川が仕立ててくれたものだ。結局あの後、黒川の前で着て見せることはなかったが、せっかくの成人祝いでもらったのだ。こんな日に着なくていつ着るのかと、迷うことはなかった。シャツに腕を通し、ベルトも真新しい本革のもの。靴は自前で買ったホールカットのものだ。ちょうど、あのテーラーを訪れたすぐ後のことだ。通りすがった道で、一目で気に入って購入した。普段動きやすいスニーカーを愛用しているカヅキにしては珍しい選択で、しかし黒川はそれを見てとても良い靴だと褒めてくれた。そして、あのスーツとの色も合っている。もしかしたら、記憶に残った欠片がその靴をカヅキの意識に引っ掛けたのかもしれない。一つ一つ思い入れのあるピースを組み上げて、晴れの日の姿を作り上げる。
「カヅキくん、こっちおいで」
手招く黒川の手にはネクタイがかけられていた。受け取ろうとしたカヅキの手をすり抜け、襟を立てられる。しゅるりと布の滑る音、少し顎を上げて、深い緑に白のボーダーのそれが結われていく。カヅキも制服がブレザーだったからネクタイを絞めることはできるが、正面から間違えずにできるかと言われると、少し自信がない。黒川の手は淀みなくノットを作り上げ、最後にディンプルを調整して、彼は満足げに頷いた。
ジャケットを羽織り、鏡に映る姿はまだ着慣れてはいないものの、ぴったりと収まっている。
「ネクタイ締める初めても俺が欲しかったなあ」
「制服がブレザーだと、中学で初めて締めるやつもいますよね」
「うん。俺は学ランだったから、ネクタイするようになったのは二十代になってからだったかな」
はじめはうまく結べなくて歪んだり、長さがちぐはぐになったり。毎日締めるうちに上達して、今は手元を見なくてもするすると身につけることができる。
「人に結ぶのも?」
「いや、初めてだよ。練習はしたけどね」
「……はじめて」
「うん。初めて。……俺の気持ちわかった?」
「ものすごく、わかりました」
鏡越しに笑う彼が好きだ。幾つもの初めてを黒川と過ごし、今度は黒川の初めてを共有した。きっとまだ、黒川との間にそんな初めては眠っているのだろう。それらはきっと、カヅキの手に渡った時に、黒川が見つけた時に、きらりとした小さな宝石に変わるのだ。
「さ、そろそろ時間だ。帰りは迎えに行くからね」
「はい!」
靴を履き、セットした髪をくしゃりと撫でる手を受け入れる。地元までの移動時間を考えると、もう余裕はそうない。クラッチバッグを片手に、彼の愛用するマフラーを巻かれ、カヅキはドアノブに手をかける。
「……そういえば、俺、ネクタイを誰かに解かれたこと、ないんです。いってきます!」
目を瞠った黒川が一瞬にして破顔したのが、扉の閉じる寸前に見えて。白い息を吐きながら、カヅキはエントランスまでの階段を駆け下りたのだった。