さあ、さあ、と細かい水滴が降り注ぐ。肌を打つそれが一つの雫となり、流れ落ちて水の道をいくつも生み出している。いつもは高く広がる空も、日中から降り続ける雨で随分と低く感じられた。吹き遊ぶ風はさすが高層ビルの上層階といったところか、油断すれば足を滑らせてしまうかもしれない程の強さをもってカヅキに立ち向かってくる。
不思議と、恐怖はなかった。二本の足で立っている。その感覚は、どんなに強い風が吹こうとも、失われることはない。
晴れていれば見渡せる眼下の夜景も、今日は水煙に霞がかって薄っすらと光が浮かんでいる程度にしか見えない。それでも構わなかった。夜景が見たくてここに来たわけではないのだから。
きらきらとしている風景も、今日のような雨模様の風景も、もはやカヅキの裡に何の感動も生み出しはしない。いつから、そうだったのだろう――そうなったのだろう。あの光のひとつが大事なものだった頃にはもう戻れないのだと、決別したはずの過去は未だにカヅキを責め、苛んでいる。
「――カヅキ」
風が巻き起こす音に掻き消されることのない、きっともう聞き間違えることもない声が、名を呼んだ。
「何をしているんです」
ガラス張りの扉の向こうから現れた男は、普段身につけている紺の軍服姿ではなく、就寝のときに着ているローブとも異なる、動きやすさを第一に考えた格好をしていた。シンプルながら、整ったスタイルを浮かび上がらせるシルエット。メーカー名こそ知らないが、きっと名だたるブランドのスポーツウェアを気に入っているのか、カヅキはその姿を今までにももう何度も見かけていた。
彼は、指導する立場であるがゆえに己の心身を磨く努力を惜しまない。手本になってこその指導者。決して口だけとは言わせない、かつての正確無比な演技の水準を保つためのトレーニングを日々熟している。
「仁さん……、」
振り返ったカヅキに、法月は眉間に刻んだ皺をぎちりと深めた。脱いだスウェットの袖をぼんやりと手に握り、床に垂れた先は薄明かりの中でも分かるほどに色を変えている。宵闇に溶け込むような、元の色を取り戻した黒髪は重たく水気を含み、毛先のどれもが下を向いていた。裸の胸に、ぽつりと水滴が落ちて流れていく。張りのある肌、浮かぶ筋にまぎれていったそれは、次から次へと姿を表しては消えていった。
「何をしている。答えなさい」
下着まで濡れそぼっていることが分かる、下衣の色。法月の問いに、カヅキは榛色の瞳を僅かに翳らせ、そして瞼を伏せた。落ちた雨が睫毛を揺らす。「何か、」言葉を探している。
「――眠れないんです」
噤んだ口を再び開いたカヅキの目尻に、雫が一つ。笑みを作ろうとして失敗して歪んだくちびる、きりりと釣り上がっている眉は今幼い子供のように垂れていた。
カヅキがそんな顔をするときは、決まってあのふたりのことが原因だ。口では何と言おうとも未だに振り切れない、カヅキを縛り付けて止まない呪い。あのふたりの存在があってこそ、今ここにカヅキがいるのだから、それが消えてはならないと分かってはいても、誰にも見せられる姿ではない。
より強く、昏い炎を生み出す、黒い薔薇の元に生まれ変わった仁科カヅキ。冷徹な瞳の奥に憎しみを燃えたぎらせ、その一瞬ばかりはすべてを焼き尽くす業火を纏う。ストリート系の他の何者をも近寄らせない圧倒的な力量。法月仁の手の中で、彼は確かに蛹を破ったのだ。
そんな、世間に植え付けたイメージとは正反対の姿だ。濡れた頬を滑る雫は、果たして雨粒なのか、それとも。
「……眠れないのなら与えた薬があるでしょう」
「飲みました。でも、」
時折、こうしてバランスを崩すカヅキには睡眠導入剤を処方させていた。しかし、よく見ればその瓶は足元に転がり、中身は既に無い。用意してから、まだそんなに日が経っていないというのに、消費するスパンが短すぎる。見咎めた法月の視線の先を、カヅキもまた気付いたのか、すみません、と口にした。過剰摂取は害にしかならないと、頭のいいカヅキはわかっている。
それでも動こうとしないカヅキに、痺れを切らしたのは法月が先だった。浴場を横切り、際に立つカヅキの腕を取る。有無を言わさず引いたその腕に、カヅキは逆らうことなく従った。
法月は、普段生徒の使うシャワーブースに入ることはない。専用の浴室を用意している。しかし、そこまで行く時間を惜しむべきだと判断したのは、掴んだ腕が氷のように冷え切っていたからだ。随分長い間外で雨に打たれていたのだと予想することが容易い体温だ。ぺたぺたと足音が続く、きっとその足も、ライトの下でやっと褐色だと分かる肌も、震えこそしていないが腕と同じくらいに冷たいに違いなかった。
カヅキを押し込んだブースで、コックを勢い良くひねるとすぐに湯が降り注いだ。タイルの壁に背を預け、大人しく頭からシャワーを浴びているカヅキの旋毛が見え隠れする。
「曲がりなりにもシュワルツローズの主席なのだから、無闇に身体を壊す真似は感心しませんね」
「……すみません」
服が濡れるのを構うことはなかった。そうっと持ち上げた顔の、頬を両手で包み込む。柔いそれは法月の手のひらにひやりとした感覚を齎し、しかしじきに温もりが染み渡ることだろう。
「カヅキ」
「は、い」
「私は、君を裏切らない」
揺らぐ瞳に、注ぐ毒。大丈夫だと囁く言葉は水音に掻き消されることなくカヅキのなかに染み渡っていく。
「君の実力も想いもなにもかも、理解できるのは私だけ」
そうでしょう。問いかけに、果たしてカヅキはこくりと小さく頷いて、ふつりと糸の切れた人形のごとく膝から崩れ落ちた。受け止めた法月の腕の中で、ぐったりと脱力した身体は動かない。
濡れたままであることを気にも留めず、法月はカヅキを抱き上げる。水気を簡単に拭い、そしてベッドに横たえた駒に向ける視線は哀れみとも憎しみともつかない色を含んでいた。
「……そろそろ、次の手に移るとしましょうか」
気を失うようにして眠りに落ちた青年は、もう雨の中でしか涙を流せない。
あとひとつ。捕らえた勇者が地に堕ちる瞬間は、すぐそこに迫っていた。