半年あまり空き部屋だったお隣に人の気配を感じたのは一昨日のことだった。誰かが越してきたのか、単身者用にしては広めのマンションはなかなかどうして入れ替わりが激しく、引っ越してきたからといって隣近所に挨拶をすることもかなり減った。顔を合わせれば会釈をするが、話すことも滅多にない。そうして、気がついたときには居なくなっている。さて隣人はこれからどれくらいここに住むのだろう。あるいは自分がここを出て行くのが先か。その時はぼんやりと隣室に思いを馳せたものだが、それも一晩経てばすっかりと霧散した。
それが、再び現実として襲ってきたのは、仕事帰りにエレベーターの前で待つ男と行き合ったときのことだ。身長は170を超えるくらいか、銀色に染めているのか抜いているのか、長い髪がとても印象的で、きっと一目見たら忘れることはない。紺のスーツは遠目にも仕立ての良さそうなもので、一体どんな仕事をしているのだろうかと下衆な勘ぐりをしてしまいそうになる。バンド?それともそういう系の服飾雑貨でも取り扱っているのだろうか。しかし彼も同じくエレベーターに乗りたかったこちらに気がついたのか、視線をスマショから上げると顔に垂れた前髪の向こうから「こんばんは」と、それは想像よりもよほど落ち着いた声をしていた。
案の定見たことのない顔だったが、そもそもこのマンションの住人の一体どれだけを知っているのか。そして、並んで上層階から降りてくるエレベーターを待つ間見ていたガラスに映った姿は、お世辞でなくイケメンの部類だ。日常、こんな近所にこんな目の保養がいることに今まで気がついていなかった己を殴りたい。とはいえ一体何階にお住まいで、なんて聞けるはずもなくエレベーターに乗り込んだら、降りる階が同じだった。
つまりは彼がお隣に越してきた新しい住人で、黒川さんというそうだった。
すれ違えば会釈するし、初対面のときのように少し時間が重なるといくつか会話をする、彼とそんなごく普通のご近所さんになるまでそう時間はかからなかった。接客業をしているという彼はとにかく話題が尽きない。そういう会話術がうまいのだろう。しかもイケメンだ。これはモテるだろうし、おそらくは付き合っている相手もいる。確信を抱いたのは、彼が越してきてから季節が一つ巡った金曜日の夜にばったり会った時、たまに見かけるいつもに比べ、随分と浮かれた顔をしていたからだ。
「なにかいいことあった?」
返ってきたのは満面の笑み。聞けば恋人からチョコレートをもらったのだそうだ。なんでもない、バレンタインデーだった。そのままデートでもすればいいのにと言ってやったら、どうやら学生らしい相手が明日は早いからと断られたそうだ。ドンマイ。そんな彼を見ていると、おそらくはその年下の学生の彼女にかなりぞっこん、可愛がっているのだろうと予想がつく。あわよくば、なんてことは考えていなかったが、それでもなんだか残念だと感じてしまうのは致し方ないことだろう。気を取り直して、ホワイトデーは弾んであげなよと背中を叩いて玄関前で別れた。2メートルくらいの距離をスキップしていた彼は正直残念だけどかわいいイケメンだった。
この歳になると一年もあっという間で年度末をむかえたのもそれからすぐのことだ。忙しい最中に残業が続き、さすがにと定時で上がり翌日も休みとなった夕方、しかし疲れに疲れた身体では遊んで帰る気にもならずにまっすぐ家路を辿り、もうすぐエントランスだとマンションが見える角を曲がって、ちょうど中に入っていこうとしていた後ろ姿には見覚えがあった。お隣に住む黒川さん、一つの店を経営しているらしい彼がこんな時間にいるのは珍しいことだが、そのすぐ隣にもう一人いたから休みなのかもしれない。彼よりは幾分か小さな、やはり銀髪の特徴的な少年だった。焼けた肌をしていたから弟かもしれない。学生服に身を包んだ少年はひどく親しげに肩を抱かれ、マンションの中に消えていった。家族が来るなら仕事も休むことだってあるだろうし、そういうときは休むものだ。横顔がチラリと見えただけだが、とても楽しそうに笑っていた。あの様子ならば仲の良い兄弟なのだろう。そういえばしばらく会っていない兄弟や親は元気だろうか。あとで電話でもかけてみよう。どこかほっこりした気持ちを抱いて、彼らと同じようにマンションの扉を押し開ける。
そして、日付も変わろうかというときのこと。家族に電話をしたらもっとマメにかけてこいと叱られたり、それでも元気そうな声を聞いて安心したり、それから撮りためていたドラマを見終わって、寝る支度を整えて明かりを落として、ベッドに入って目を閉じて。電話以外は普段繰り返しているルーチン作業でその日も変わりなく、気がつけば翌日の朝になっている。そのはずだった。
「……、っ……さ、ん……」
寝る前の静かな空間だからこそ聞こえてきたそれは、はじめはただの会話か映画か何かを見ているのだろうと思っていた。しかし、それにしては静かすぎる。ドラマなんかにつきものの音楽や効果音は聞こえないし、やけにくぐもっている。一体なんだろう、つい耳をすませたのがいけなかった。途端に聞こえてくる、ぎしぎしと規則的に軋み揺れる音と、涙交じりの甘えたような声。
「ぁあっ……ぁ、く、さぁん……」
これは、あれだ。いわゆるそういうことをしているあれだ。あらあらお盛んですね、なんて今度言ってやればいいのだろうか。彼女のハスキーな声に混じる低いささやきこそ、隣人のものに間違いない。夜、ベッドの上で、彼はどんな言葉を囁くのだろう。
しかし、夕方は兄弟が来ていて夜は彼女を連れ込むなんてなかなか忙しい男じゃないか、黒川さん。もしかすると息遣いすらきこえてくるような気がするから、この壁は案外薄いのかもしれない。ということは気持ちよく大声で歌っていたのが聞こえていた可能性も否定できない、恥ずかしい。布団に頭から潜って、次第に感覚の短くなっていく声と音だけが部屋に響いているうちに、どうやら眠ってしまってらしい。気がついたら朝だった。部屋の電気をつけっぱなしで寝たというのに全く起きていないあたり、疲れがたまっていた証拠だ。年々疲れが取れなくなっている現実を目の当たりにするようで、そんなマイナス思考を振り払わんと窓を開けた。ベランダから見える空はよく晴れている。涼やかな空気が部屋に流れ込んでくると同時に、漂ってきたのはこの数ヶ月の間にすっかり慣れ親しんでしまったにおいだ。パーテションで仕切られた向こうから、ひらひらと揺れる褐色の手が現れる。
「おはよーちゃん」
「おはよー黒川さん。いい天気だね」
「そうだね、洗濯日和だ…っと、お湯わいた」
入れ替わりに彼は部屋に戻ってしまって、それきり外に出てくることはなかった。朝になれば生活音が溢れる世界で、隣人がなにをしていようとも気になることはない。今までも、もしかしたら気がつかなかっただけで彼は彼女とよろしくしていたのかもしれない。集合住宅なんだからそんなこともある。むしろ今までなかった方が不思議なのだ。気持ちを切り替えて、せっかくの休みなんどからためていた洗濯やら掃除やらを片付けてしまおう。まずはどこから手をつけようか、生活する範囲にばかりものの集まった部屋の中を視線が一巡りして、「ゴミ捨てからだな」そう決めた。
スーパーの袋二つ分がぱんぱんに膨れ上がったものを手に、エレベーターホールへと廊下を歩く。ほんの数メートル進んだところで、背後から扉が閉まる音がした。そして軽快な足音が近づいてくる。
「あ」
「おはようございます!」
昨日、お隣さんと一緒にいた少年だった。てっきり帰ったものと思っていたが、泊まっていたのだろうか。首を傾げつつ「おはよう」と返せば、爽やかに挨拶をしてくれた彼はなんとゴミ袋を一つ持ってくれたのだ。お隣さんでは見られなかった気遣いだ。エレベーターに乗り込みつつ、ほとんど変わらない視線の高さに微笑ましさを感じてしまう。どこかで見た覚えのある彼は、昨日と同じ学生服をきっちりと着込んでいる。ここから通学できる距離なのかもしれない。特徴的な制服は、一度見たら忘れなさそうなデザインをしているけれどもどこのものだろう。重たいゴミのコンテナを開けるのも手伝ってくれた彼は、一つも嫌そうな顔を見せない。それにしても、つんつんと立てた髪の付け根に一つある虫刺されが毒々しい赤をしている。
「よくできた弟さんだ…」
「へ?」
「黒川さんの弟さんでしょ?」
「いや、俺弟じゃないですよ」
「えっ」
そうして彼は電車の時間があるからと颯爽と立ち去っていく。あっという間に見えなくなった臙脂色のブレザーは、そういえばプリズムスタァ養成所の名門のものだ。つまり高校生。
「え、ええ??!?」
あの二人の距離感、聞こえてきたハスキーな声、そして首筋の赤。そうしてたどり着いてしまった可能性の真偽が気になって気になって仕方のない一日が始まったのだった。