或る男

彼…私の同僚の男
法月仁…彼が大ファンの元スタァ

「法月仁を好きにする権利を手に入れたんだ」
聞いてくれと興奮気味に語りかけてきた同僚の言葉に私は首を傾げた。言葉の意味がさっぱり頭に入ってこなかったからだ。
のりづきじんをすきにする権利。権利だけは分かった。彼は、何かをする許しを得たのだ。しかし、その対象は一体何なのか。
のりづきじん。法月仁といえば、数年前に引退したとはいえ、二度プリズムキングに輝いた存在だ。プリズムショーの熱狂的ファンである目の前の同僚から、いろいろと話を聞かされて知識として持っている。きっと私自身も当時は見ていたのだろう。あまり興味がわかなくて、覚えてはいないけれど。
その、法月仁なのだろうか。私の疑問はすぐに氷解した。彼が、尋ねてもいないのに勝手に話し出したからだ。
「この間飲み屋で知り合った人に誘われてさ、俺も名乗りを上げたんだ。冗談だと思ったんだけど、そうじゃなかった! 金持ちの道楽らしいんだけど、一晩俺はあの法月仁を好きにしていいことになったんだ!」
ああ嬉しい、天を仰ぐ彼は、先月の締めが終わったあとに一人で飲みに行ったらしい。営業所で一番成績が良かった彼は、報奨金をもらっていたからそれなのだろう。今月は、このままいけば私がもらうことになる。やったね。
彼はそこで知り合った人と、プリズムショーの話で意気投合した。三強時代と呼ばれた世代を彼らは愛していた。彼は、法月仁を。相手の人は、怪我で引退を余儀なくされた氷室聖を。王子様めいた容貌を持つ氷室聖のことは私も覚えている。そして、誘われたのだそうだ。私のノリが悪いからとぶつくさ言っていた彼は、二軒目三軒目と飲み続け、とうとうそこで男に話を持ちかけられたのだそうだ。
『法月仁に会いたくないか。法月仁を、一晩自分のものにしてみたくはないか。金はいらない、とある筋からの依頼で彼の大ファンを探していてね』
怪しさ満点すぎる。120点。いや200点。金はいらないってますます怪しい。そもそも自分のものにするってなんなんだ。候補が何人かいれば抽選になるという話。
しかし、だいぶ酔っぱらっていた彼は一、二もなく頷いたのだ。連絡先を渡し、抽選に当たれば連絡が来る。どうせ冗談だろうと彼も思っていたのだ。もし本当ならラッキーだと。それからひと月が経ち、彼もそのことをすっかり忘れていた。
それが昨日、連絡が入ったのだという。男からもらった名刺と同じ名前、アドレスから、日時を指定するメールと、許容されないことについて。用意のあるものについて。
内容を聞いて、ぞっとした。切断、暴力はNG。しかし、それ以外は身体に一生残る痕を付けなければ何をしてもいい。道具に希望があれば承諾の返信に記載するように。
「法月仁の白い肌には赤い縄がとても似合うと思っていたんだ! まさか実現できるなんて、ああ、ああ、とても楽しみだ! 夢かな? 殴っていいよ、本当だって実感したい!」
こんなの、安全なはずがない。そう言っても彼は聞く耳を持たなかった。見ず知らずの男の甘言を信じきっている。
確かに、法月仁はうつくしい男だ。甘いマスクに正確無比な演技。彼の見せてくれた映像の、夜の色をした瞳は印象的だった。しかし、だからといってそんな劣情を抱いたりはしなかった。そんな目でみることを、思いつきもしなかった。彼はいつからそうやって法月仁を見ていたのだろう。純粋にプリズムショーを好んでいるだけだと思っていた私が、彼の真意に気付けていなかっただけなのだろうか。
私自身も何か他から言われたら腹がたつだろうから、人の趣味嗜好に口を出すつもりはない。しかしあまりにも、内容が危険すぎる。いっそ大金を払って、の方が安心できる。対価もなくやっていいことではない。
「ああ、月末の土日が楽しみだ! これを糧に仕事も頑張れる!」
彼の目は、きらきらと輝いているはずなのに、どうしてか私には狂気に澱んでいるようにしか見えなかった。数年間同じ場所で働いてきたはずの彼が、私に何度も愛するプリズムショーのことを、法月仁のことを語り聞かせてきた彼とは全くの別人に見えて、仕方がなかった。そうか、頑張れ、としか、もはや私は言葉を見つけられなかった。
彼は、最後の一週間でかなりの追い込みを見せ、私の成績を追い越し二ヶ月連続で営業所で一番の成績を収めた。それもこれも法月仁のおかげだと、どろりとした目で笑う彼が恐ろしくて、おめでとうと告げて、私は飲み会の誘いを断った。別に一番になれなかったのが悔しかったわけじゃない。いや悔しいけど、それ以上に彼が怖くてたまらなかった。

月が明けて、私はすぐ一週間の出張に行くことが決まっていた。月曜日の朝に営業所に顔を出し、金曜日に戻ってくる。出張自体はつつがなく終わり、頼まれた土産物を抱えて月曜日に出社して、各自の予定の書き込まれたホワイトボードに向かう。個別に渡せそうなものであれば渡すし、難しそうであれば事務の人に頼むのが慣例なのだ。
「あれ?」
びっしりと、一週間の予定が書き込まれているはずのそれが、一段だけ真っ白に抜けている。裏をひっくり返せば、週の半ばからその段は白くなっていた。
「部長、君、どうしたんですか?」
あんなに楽しみにしていた例のことがあった直後に、風邪でも引いたのだろうか。季節の変わり目で私自身も風邪気味である。
しかし、部長はペンを置くと腕を組み、難しい顔をしてしまった。嫌な予感がする。
「無断欠勤かと思ったら先週の土日から帰っていないらしい。すでにご家族が捜索願も出されたらしいんだが……」
部屋の様子に変わりはなく、置き手紙などもない。財布やスマホは持って出かけていて、しかしそのスマホはずっと電波の届かない場所にあるとしか返事をよこさない。コミュニケーションアプリも、何もかもが未読のまま。
「何か知ってたら教えて欲しいそうだ。うちも今後のこともあるしな。というわけで、の分まで働いてくれ」
私はちゃんと、いつもみたいに返事ができたのだろうか。よぎった想像はきっと間違っていない。
ああ、だから、言ったのに。

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