薄暗い部屋をぼんやりと見上げながら、肩に触れる温もりの心地よさに意識は浮上した。見慣れた天井は寝落ちる前にも見ていたものだ。頭を傾ける。温もりの正体が、すぐそばで寝息を立てていた。
いつ寝てしまったのだろう。カーテンの隙間に白み始めた空がある。覚えているのは、風呂から戻るのを待ってベッドに入り、他愛のない話をしていたこと。そして日付をまたぐ少し前に始めた行為は、久し振りだったから随分と長かった。我を忘れるほどの快感に飲み込まれる直前に見た、眠る人の情欲を灯した瞳の色が最後の記憶だ。
またあられもない姿をさらして、あられもない言葉をいくつも放ってしまったのかもしれない。いつか、恋人に――黒川に見せられた映像を思い出す。だらしなく開いた唇からよだれを垂らし、呂律の回らない舌で必死に名前を呼んでいる。伸ばした両手を取った黒川に抱きしめられ、最奥を穿たれて悦楽に震える姿。高く啼いた声は誰のものかと問いただしたくなるほどに濡れていた。最早意味も何もない言葉ばかりを吐き出す姿は正気ではなく、がくんと首が仰け反って、黒川が達したことで終わりを告げた。
あのときも、昨日も同じだ。ローションや体液でどろどろだった身体は、さらりとしたシーツと毛布に包まれている。まるで昨日のことが嘘のように清められているけれど、鈍く痛む腰や、まだ中に何か埋められているような違和感が夢ではなかった証だ。手を持ち上げようとするだけで、身体が軋む。普段使わない筋肉を酷使した反動は、カヅキにそれ以上の動きを容易く諦めさせた。
身体がそう慣れてしまったのか、それとも誰かと眠ることにまだ馴染みがないのか、黒川よりも早く目が覚めて、枕に流れる銀髪であったり、横顔であったりをぼんやりと眺める。太くすっと伸びた鼻筋に、普段は隠されている目元。男らしい線を描いた輪郭から、裸の肩に繋がるたくましい首筋へと繋がっている。そのどれ一つを取ってもカヅキの憧れだ。ダンスも、ショーも、それを生み出す黒川冷という男のからだも、どれもがカヅキの好きなものだ。
あの唇が全身に触れた。息を全て飲み込まれるようなくちづけを何度もした。紡がれる言葉の一つ一つ、名を呼び、想いを告げ、時折混じるいじわるな言葉すらも、誰にも渡したくない。そんな独占欲を抱いたのは、今も昔もこの人にだけたった。息を吸って、吐く。たったそれだけの数秒すらも。近くで見ると案外長い睫毛は黒い。眉と同じ色だ。厚めのくちびるに喰われる瞬間、いつも目を閉じてしまう。いつまででも見ていられるけれど、眠っているとき限定だ。起きていたら、きっと「……見過ぎだよ」予想していたよりもずっと低い囁きが、空気を震わせた。
「っ、さ、お、起き……」
「寝てるよ、すごい、寝てる」
「うそだあ」
眠ったまま、くつくつと喉を鳴らして笑う器用な男が寝てるから見てていいよ、なんて嘯かれて、そのとおりになどできるはずもなかった。起きてるじゃないですか。声に出そうとしたそれはあまりに掠れていた。喉がざらついている。小さな咳を三度、やっと黒川は目を開けた。
「泣かせすぎたかな」
「……、そんな、ことは」
「カヅキくんは途中からとんでたから覚えてないかもね」
右の親指が目元を撫でていく。少し腫れていると、冷たい指先が言った。
「俺が覚えてるから、いいよ」
毛布が肩を滑る。抱き寄せる腕は逆らうことも逃げることも許さない強さがあった。逃げるつもりも、避けるつもりも、露ほどにもないのを、知っているはずなのに。
こんな大人のところに落ちてきて。付き合い始めて間もない頃に、まだ緊張の抜けないカヅキが聞いた言葉だ。呆れているようで、揶揄を滲ませたようで、案じる響きを含み、確かな歓喜も在った。檻の中に自ら入ったのはカヅキだ。後ろで錠が落とされようとも構わない。そこにいると決めた、ここに居たいと望んだ。黒川は受け入れた。
「次からは加減しなきゃなあ」
「れい、さん」
そうやって呼ぶと、柔らかく笑うのが好きだ。舌の上で転がしている黒川の名を、もう一度音にする。今、何をしたいか、何をしてほしいか、伝わったらいいと少しのわがままを込めて。そして、それを間違いなく汲み取るのが黒川冷という男だった。
すぐそばで、笑う吐息が肌を撫でた。細められた青は静かな湖の湖畔のようで、魅入るうちに底の見えない中に沈んでいく。目を閉じてしまうのが惜しい。視線をそらせずにいるまま、柔く厚いものが掠めていった。擦り合わせ、食んで、食まれて、啄むばかりのくちづけは昨晩の喰らい尽くすようなものとは全く異なっている。戯れ合うだけ。まるでこどものままごとのようでありながら、いつ反転するかという緊張も孕んでいる。
「目、閉じないの?」
囁きが問いかける。キスとはそういうものだと思っていたカヅキの認識を塗り替えたのは、他でもない囁きの主だというのに、揶揄うように引っ張り出してくる。けれど今はそれに感謝したい。固定観念を崩されていなければ、こんな穏やかで暖かな色も、ぎらぎらと欲にまみれた光も、何も知ることができなかったのだ。答えは決まっている。
「もったいないから」
目に焼き付けておくのだと言葉を継げば、黒川の笑い声が再びささやかな揺れとなって、カヅキのくちびるを舐めていった。