数年前から龍と暮らしている。隣村とを結ぶ道で起きた土砂崩れに巻き込まれたのであろう商隊の荷物に紛れていた卵から孵った龍だ。
冷の生まれ育った村は装飾品の加工で生計を立てているものが多く、冷も例に漏れない。その卵は、珍しい鉱石の塊かと見まごうほどに美しい緑をしていた。加工して装飾品にしようとノミを打ち付けたものだが、いくら金槌で叩いても罅の一つも入らない。それどころかノミが負けて欠けてしまうほどの硬さに誰もが手をあげ、結局見つけた冷の手元に返ってきた。熱しても冷やしても、何をしても傷のつかない塊を一体どうしたものかと工房で睨み――それが、揺れた。すわ、地震かと咄嗟に机に捕まったが地面は揺れていない。しかし、目の前の緑はゆらゆらと前後左右に揺れていた。
これは、鉱石ではない。
そこからは早かった。稀に、人間の棲む世界に紛れ込む龍族の卵は、時に貴金属を纏い自身を守ることがある。それは中で育つ雛を守るために刃を通さない硬さを持ち、時がくれば内から破られるのだ。誰もが知っている言い伝えだが、所詮は旅芸人や吟遊詩人の謳うことと気にも留めていなかった、それが真実ならば。
人の子は十月十日で女の腹から生まれ出る。龍の卵だったとして、一体どれほどの時間で孵るのだろう。温めたほうが良いのか、それとも同じような石に囲まれていたほうがいいのか。揺れるくらいならもうそろそろ生まれるのかもしれない。結局、寝室に運び込み、毎朝毎晩「元気に生まれておいで」と話しかけて寝て起きる生活が始まった。龍の雛――カヅキが生まれたのは、それから二ヶ月が経ってからのことだった。
そもそも龍の世界があるのか、語られる龍の姿は何種類もあり、どれが本当なのかもわからない。明け方、カタカタと卵が揺れる音で目覚めた冷は、どんなに叩いても割れなかったその殻に、一条の罅が入り、そしてとうとうぱらりと欠片が落ちるのを、夜明けと共に見つめたのものだ。現れた雛が、ひとの赤子に鱗の生えた尾や翼を背に生やした姿だったのには目を疑ったものだが、それも後に「傍にいるものの姿に似せて生まれる」ということを知った。今、カヅキは人の姿と龍の姿とを行き来している。普段は人の子、それでも成長は早く、すでに少年期を終えようとしている頃の姿だ。同じ龍であるアレクサンダーと過ごすときは、龍でいることが多いようだった。
「カヅキ、飯にするぞー、ってカヅキ? どこ行った?」
野菜と小麦で作った麺のスープが今日の昼食だ。龍は肉食だが、それ以外を食べないわけでもない。草も野菜も食べるし、肉は骨ごと軽々と噛み砕く。カヅキは生まれた時に自身を包んでいた殻をまずはじめに食べていたし、冷が装飾品の加工に使った残りの、欠片の宝石を時折美味しそうに舐めていることもある。
とにかく、なんでもうまそうに食べるカヅキの姿は、冷にとって食事を作ってやりたくなる相手に違いなかった。
「おっかしいな、出かけるって言ってたっけ」
朝、家と併設している工房には一緒に来た。村の子供達が訪れた気配はなかったし、生まれたばかりの頃こそ攫われかけたこともあったが、今は鋭い爪や炎の扱いにも慣れてきて、自身を守る力も持っている。とはいえ、まだ幼いことには変わりなく、出かけるときには一言かけていけと言い聞かせていたのだが、その姿はどこにもない。
小屋の周りをぐるりと一周して、早々に諦めた。腹が減ったら帰ってくるだろう。番だと公言してやまないアレクサンダーだって、冷の断りなしにカヅキを連れて行くことはしないと、カヅキからの願いもあって約束した。そのアレクサンダーだって、今は一度龍の世界に戻っている。なんでも、カヅキを迎え入れる準備をするとかなんとか言っていた。いつか巣立ってしまうのは、正直に言って寂しいものだ。娘を嫁に出すのがこんな気持ちなのだとしたら、味わうのは一度でいい。
本当は手放したくない。日に日に育つカヅキは親の欲目だとしても可愛らしい。成長を誰よりもそばで見守っているからか、人とは違う部分はカヅキと共に学び、冷自身も成長したからか、目に入れても痛くないとはこのことだ。しかし、どんなに愛していようとも、カヅキとは生きる世界も時間も違う。もう、カヅキのいない生活が思い出せないというのに。
晴れた空にカヅキの影はない。森か、鉱山にでも遊びに行ったのかもしれない。ここのところ冷のところに舞い込む依頼が多く、相手をしてやる時間が減ってしまったから、拗ねてしまっただろうか。生まれたに構いすぎたせいか、少し甘えん坊のきらいのあるカヅキは、しかし冷の手が生み出すきらきらとした装飾品をとても好いてくれている。
湯気の立ち昇る麺を啜りながら、冷は胸元に下げた緑色の欠片を撫でた。カヅキの卵の殻の欠片だ。あらかたを食べてしまったカヅキが満足げに真っ赤な炎を吐いて慌てたのも懐かしい。部屋の掃除をしていて見つけた欠片は、冷の大事な宝の一つだ。
「さて、もうひと仕事するかな」
カヅキのために用意した分は鍋に戻し、工房へと続く扉を開くと、ひゅう、と涼やかな風が吹き抜けて頬を撫でていく。いい風だと額にかかった髪を撫でつけ、それが徐々に強まっていくことに気がついた瞬間――どすんと庭に茶色いものが落ちてきた。
「え」
それが、空から落ちてくる道理はない。森に生きる獣なのだ。ぐったりとしているそれは胴に大きな傷があるものの、未だ生きているらしく、ぴくぴくと動いている。一体どうして、何が起きたのか。目を白黒させている冷に届いたのは、探していた愛し子の声だった。
「くーさん!」
「うわ、カヅキ!? これ、一体どうしたの」
「つかまえた!」
龍の姿でくるんと宙で一回転、腕の中に飛び込んできたカヅキは一瞬のうちに人の子のそれへと?化していた。抱き上げるとずしりと重い。裸の肩に着ていた上着をかけてやり、家の出入り口すぐのところに置いている靴を履かせた。腕から飛び降りたカヅキが、ぐいぐいと手を引っ張ってくる。子供のものとは思えないその力は龍の子だからなのだろう。
中庭に倒れ伏したままの獣は、もう自力では立てない様子だった。よく太った、立派な角を持つ毛艶の良い鹿だ。めったに見られるものではない。
「くーさん、さいきん肉たべてないって言ってたから、つかまえてきたよ!」
「ひとりで狩りしたの?」
「うん! 村のみんなでたべよう!」
「すごいなぁ、カヅキ……俺でもなかなかこんな立派なのは捕まえられないよ」
家畜といえば鶏を飼っているくらいの冷は、肉を食べるとすれば時折うさぎやきつねを狩る程度だ。鹿やイノシシは狩猟をなりわいとする者から譲ってもらうことはあるが、滅多に口にすることはない。いつの間にこんな大物を狩れるようになったのだろう。傷は、カヅキの爪によるものなのだ。決して冷に向けられることはないと分かっていても、背筋がひやりとしてしまう。あんなに小さかったのに。
「ありがとう、カヅキ。そうとなれば血抜きして、捌いちまおう。今日の夕飯は豪華になるぞ」
「おれ、さばくのやりたい!」
「そう? じゃあ教えるから一緒にやろうな」
やったぁと飛び上がるカヅキをぎゅっと抱き締めて、その髪をくしゃくしゃと撫でると歌うような笑い声があがった。人の姿の手のひらはまだ小さいというのに、とんでもない力を秘めている。
龍の姿なら、頭からぼりぼり食べるのだろうか。アレクサンダーの大きな口ならやりかねない。カヅキもまたそうなる可能性は否めないが、今はまだひとの姿でいる時間も長い。生きる世界が違っても、知識が多ければ困ることはないだろう。いつか、立派なハンターになれるかもしれない。
にく、にーくとくるくる回って喜んでいる姿は無邪気そのものだ。準備をするよと呼びかけると跳ねるように駆け寄ってくる。肉を食べて精をつけて、今夜はカヅキと遊んで、残りの作業は明日に回そうと決め、冷は工房の錠を下ろしたのだった。