呼ぶ声は変わらずに


アレクサンダー(三十路)×クーカヅの息子、皐月(中学生〜高校生)
息子はアレクサンダーのこと大好きだし、アレクサンダーは赤ん坊、いや生まれる前から知ってる子供のことがとても大事。





 アレクサンダーは特段勉強が得意なわけではない。寧ろ、必要最低限の成績さえ取れればいいと言っていたクチだ。だから、幼い頃から面倒を見ている友人の子の小学生の範囲くらいならばまだ教えられたものの(教え方も決して上手いわけではないが)、中学も学年が進んでいくと教科書を一緒に読むところからになってしまう。数学なんて人生の何の役に立つのだか。ぼやいていたら、理系である友人と、そのパートナーに苦笑いされたものだ。
 そんなアレクサンダーが教科書を見ずに教えられるものといえば、歌と踊り、それからその体に半分流れる国の言葉――英語であった。
 父親が米軍基地にいる。といっても、生まれ育ったのは日本の横須賀、基地の中ではない。そもそも誰の種なのかもろくに分かっていないのだ。時期的にあの人だろう、結局未婚の母としてアレクサンダーを育てた女はそう語った。写真もなく、もしかしたらもうすでに日本にはいないのかもしれない。それでも不自由なくやりたいことをやらせてくれた母には、今は感謝している。若い頃は反発して家をすぐに出てしまったから、随分と泣かせてしまったものだ。
 目の前でノートにシャープペンを走らせる子供は、どんな成長を見せるのだろう。両親共になんだかんだ元ヤンだったり暴れん坊と呼ばれていたりで喧嘩は絶えないと聞いたが、決してそれは暴力ではない。アレクサンダーにはいなかった父という存在と子の距離のとり方はきっとうまくいっているのだ。己の場所でガス抜きをするならばそれもかまわない。
 我ながら、随分と甘くなったものだ。
「そこはtoよりforのがしっくりくる」
「うーんまた間違えた」
「やってくうちに覚えるだろ」
 コーヒーを片手に指摘する。八月も上旬にして夏休みの課題も残すところこの英語のテキストだけだというから、頭の出来は悪くない。
「アっくんてさぁ」
「あ?」
「愛称とかないの? ほらこういうの」
「ああ……」
 ペン先が指し示していたのは単語の横に並んだ注釈だ。最近の教科書はそういうものも丁寧に書かれているらしい。BillはWilliamの愛称。知らなければわからないだろうそういうものがあるのはどこの国でも同じことだ。
 しかしすっかり集中力を失った子供はシャープペンを放り投げ、傍らに放り投げていた端末を弄り始めてしまった。ブラウザを立ち上げ、何やら単語を入力している。一時間ほどやっていたから休憩にするかとアレクサンダーがすっかり冷えたコーヒーを啜っていると、どうやら目当てのものを見つけたらしい子供が「あった」と小さく呟いた。
「アレックス、アル、アレク、レクシー、サンディー」
「好きに呼びゃいい」
「いっぱいありすぎる!」
「珍しくもねえ名前だからな」
 愛称、そんなもので呼ばれた記憶はアレクサンダーにはなかった。母はいつか見た映画のスターが忘れられないとアレクサンダーという名を与えた。古くはマケドニアの王とも同じ名だ。記憶の中ではずっとアレクサンダーと呼ばれていた。幸い、横須賀にはアレクサンダーと似たような、ハーフの子供は他の地域よりは多かったから、悪目立ちすることはなかった。しかし、如何せん幼い頃から目つきは鋭く、人付き合いは得意ではなかったせいで、友人と呼べる友人はほとんどいない幼少期を過ごし、それからも愛称なんてものとは程遠い人生だった。強いて言えばこの子供の言う「アっくん」がそれになるのだろう。言い出したのは子供の父親――黒川だが、いつの間にかこの子供ばかりがそう呼ぶようになっていた。
「あっこれ! これがいい! サーシャ!」
「ブフッ」
「うわきったねえ」
 略称だったのがまだ幸いだろう。子供に英語以外の知識がなかったことも。それにしても、英語圏以外のものまで載っているとは予想外すぎた。濡れたシャツを拭うも、黒いしみは早くに洗ってしまったほうがいい。諦めてシャツを脱ぎ、子供の額を一つ小突いて立ち上がる。
「だめ?」
「……外では言うなよ」
「わかった!」
 何を基準に選んだのか。
 結局、その愛称で呼ばれることはほとんどないまま子供は中学を卒業して、高校生になって――そして、アレクサンダーのことが好きだと言ってきた。高校を卒業するまで変わらなければ付き合うと返事をして、大学に入学する春に恋人となった子供に、聞いてみた。
 裸の肩が、まだ寒いと擦り寄ってくる。羽毛布団の中で抱き直してやれば、「なんかさ」眠気にとろとろとし始めた声で、あの頃を思い出している。
「サーシャって、優しい感じがしたんだ。甘くて優しいわたあめみたいで、だから、アっくんみたいだとおもった……」
「……そうか?」
「そーだよ、……サーシャはね、俺にとってはずーっと、やさしくて、あったかくて、安心できる人なんだよ」
 尊敬する男と、ライバルとした男。二人によく似た赤ん坊が、アレクサンダーの腕の中でふにゃふにゃと笑った日を覚えている。ふくふくとした小さな手が人差し指を握りしめる力の強さに驚いたことも、体力が尽きるまで泣き叫ぶその声の大きさも。成長してからは素直に慕ってくる姿が、くるくると変わる表情が、まっすぐに向けられるその感情が、子供だ子供だと思っていた庇護欲が、いつの間にか他の誰にも抱いたことのない愛おしさに変わっていた。もうすぐに眠りに落ちるのだろう、瞼はほとんど閉じかかっている。散々吸った唇は少し腫れて赤くなっているものの、半開きになっているのが整った顔立ちなのに間抜けで可愛らしい。
「皐月」
「んー……」
 もう意識もほとんど遠い、ふわふわとした声にそれ以上の会話は諦めた。抱き直した温もりはいつかのそれとよく似ている。懐かしさに口元を緩め、部屋の明かりを落としたアレクサンダーもまた、ゆっくりと目を閉じたのだった。

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