白い息がだんだんと透明になっていく。肺の中まで冷え切って、温もりの待つ家に向かうことが、こんなにも気持ちを逸らせるなんて少し前までの黒川は思いもしていなかっただろう。見上げたマンションの一室は煌々と明るく、中に人がいることを知らせていた。
エレベーターが降りてくるのを足踏みして待って、それが再び上昇する時間すらも待ち遠しい。扉が開くと同時に廊下を駆けて、突き当たりの部屋のドアを開けた。
「ただいま!」
玄関に入った途端、全身があたたかな空気に包まれて指先からじんわりと融けていく。リビングからはなにやらバラエティ番組のような笑い声が聞こえてくる。革靴の踵が潰れるのも気にせず脱いで、そこでやっと三和土に双ぶそれの数が想像よりも少ないことに気が付いた。予想の通りならば、黒川の脱いだ靴と、ゴミ捨て用のクロックス以外に、三組並んでいるはずだ。
「カヅキくーん?」
ぺたぺたとフローリングを歩みながら呼ぶのは、この部屋のもう一人の住人だ。彼と、彼の友人二人と、合わせて四人で今日は鍋を囲むことになっている。しかし、ひょいと台所から顔を覗かせたのは、黒川の探し人ではなかった。
「黒川さん、おかえりなさい」
「ただいまタイガくん。カヅキくんは?」
「カヅキさんはアレクサンダーと酒買いに……」
買い込んでなかったっけ? と記憶を辿りながら冷蔵庫を開けると、確かにビールの缶が片手ほど。四人で飲むには少々どころか全然足りない。なにしろ、去年やっとタイガも成人し、晴れて飲酒解禁となったのだ。そして、東北の生まれだからか、聞いた話では結構イケる口らしい。
食器や具材の準備をしていたらしいタイガは、ある程度を終えたかコンロの上に土鍋を置いて、黒いエプロンを外した。カヅキが貸したのだろう、彼にぴったりのサイズであるそれは、タイガには少し短いようだった。初めて会った時は黒川よりも背の低かった彼は、今やすくすくと育ち、目を合わせるにも見上げなければならない。すらりと伸びた手足はストリートダンスのために鍛えられ、しなやかに筋肉をまとっている。
「もうあれから五年……六年? 俺もおっさんになるわけだ」
「?」
「タイガくんやアレクサンダーと初めて会った頃を思い出してたんだよ」
まだ学ランに身を包んでいたタイガ。律儀に制服を着ていたアレクサンダー。こうして一つの空間で食事をしたり、なんでもない会話をしたり、更には深い付き合いをするようになるとは、その当時は想像もできなかったことだ。黒川とてカヅキをパートナーとして迎えるに踏み切るまで、いろいろな葛藤があったものだ。けれどその選択を悔やんだことは一度もない。
「どれくらい前に出てった?」
「二十分くらい……スかね」
「じゃあそろそろ帰ってくるかな。先に始めてよう」
コートをクロゼットにしまい、楽な服に着替えてソファに腰を下ろす。おいでおいでと手招けば、タイガは素直に従った。デビュー以来、ぶっきらぼうながらもそのまっすぐな性格を表すような言葉、美しい緑の瞳や黒髪、言葉は少ないものの内に秘める熱はとても激しいのだと体現するジャンプで一躍人気のスタァとなったタイガは、この数年のうちに心身ともに健やかに育った。その中に、カヅキや、アレクサンダーの存在が大きく関わっていることは言うまでもなく、黒川はその二人のそばから、タイガ、アレクサンダー、そしてカヅキがより羽ばたいていく姿を見ていた。いつかここからも、飛び立っていくのだろうか。そんな一抹の寂しさが時折吹き抜けていく。
「黒川さん?」
「あーやだやだ、歳は取りたくないなあ。タイガくんちょっとハグさせてよ」
「は? はあ……」
振り払うために首を振って、訝しげに眉を寄せたタイガに向けて両腕を開く。するとタイガは案外すんなりとそこに滑り込んでくるものだから、流石の黒川も苦笑した。こんなに無防備で、一体アレクサンダーはどんな扱いを彼にしているのだろう。
アレクサンダーとタイガ。カヅキの話によると、出会いは最悪、それから顔をあわせるたびに睨み合い罵り合い、それがいつの間にか一緒にジャンプしていたり、声を合わせてカヅキに文句を言ってきたり、気づけば二人でラーメンを食べに行っていたり、話の中に名前が出てくるようになって、付き合い始めたと聞いたときには目玉が飛び出るかと思ったものだ。不可抗力だと言っていた。酔った勢いで云々。どう転んで不純同性交遊に至ったのか聞いてみたいものだが、彼らももうすでに成人したいい大人。そこまで踏み込むのは無粋というものだ。それが一年前の話で、見たところ、今は普通の友人の付き合いをしているようだが、そこのところはどうなのだろう。
膝の上に引っ張りあげた身体は、黒川にあまり体重をかけまいとして強張ってしまっている。ゆっくりと腕に力を入れていくと、さらに緊張が高まったようだった。力抜いて、背中を撫でて肩口に頬を預けると、やっとタイガも硬直を解いていく。服の上からもわかる、無駄な肉のない均整のとれた身体をしている。黒川がかつて同じ歳だった頃は、もう少し厚かったかもしれない。抱いた手が、背の中心から骨を辿り、尻まで下がるとあからさまに震えた。反応も、良い。
ちょっとした悪戯心だった。ほんの少し、摘み食い。カヅキと付き合う前は散々遊んでいた、その気持ちが俄かに盛り上がる。
(カヅキくんは怒るかな)
弾力のある尻の肉に指を僅かに沈め、そして鼠径部を通り、太腿へ。柔らかな内股を触れるかどうかのところで往復していたら、擽ったさにか吐息が黒川の耳を掠めていった。
あくまで、抱き締めているのだと。背に添えた左手は、しかしタイガを逃すことを許さない。黒川の動きに大胆さが加わるまで、そう時間はかからなかった。黒川さん、戸惑いと焦りの滲む声は途中で飲み込まれ、重みが膝にかかる。嫌なら蹴り倒すなり突き飛ばすなりすればいいのだ。いくら憧れた先輩の尊敬する相手でも、大事な相手の憧れでも、そうしたところで黒川が怒るような男ではないことは分かっているはずだ。確かにやりにくいことだろう。そこにつけこんでいる自覚はある。
「く、ろかわ、さ……っ」
「んー、タイガくんはいい体してるねえ」
「あざっす、て、そーじゃなくて……!」
何かを堪えるように、タイガはとうとう黒川の肩に顔を伏せた。横目で見た耳まで赤く、ぎゅうと握った手が服に大きな皺を作り出している。そわり、と心がざわめいた。最近富に可愛げの減ったカヅキを思い出す。かわいいことはかわいいのだ。健気なのも相変わらず、しかし言葉に遠慮や容赦が減ってきた。やっと慣れてきたとでもいうべきなのか。身体もセックスの快感を覚え、ねだられることも少なくない。それにしては未だに我が儘もあまり言わない、変わらないところもある。そんなカヅキも初めはこうだった。少し触れるだけで真っ赤になって、動けなくなって。次は何が来るのかと恐れながらも期待して、離れていくと大きな目に薄い水の膜を張る。可愛い。
それは、初心な子供は面倒だとばかり思っていた黒川の、新たな性癖の目覚めだった。
宥めるように、そして少しずつ煽るように。更に一手を打とうとした黒川だったが、「ただいまー」「黒川さん帰ってんじゃねえか」「ほんとだ」「てめえがさっさと決めねえから」騒がしい声と足音が聞こえてきたかと思ったら、二つの影がリビングに現れ、黒川と振り向いたまま固まったタイガを視界に捉えると一瞬で腕の中を空にされていた。ひやりとした空気が漂ってくる。ダウンベストに片手には中身のよく詰まったビニール袋を下げ、もう片方の腕でしっかりとタイガの胸を抱いている。
「や、おかえり」
「なにやってんだあんた」
「いやあ、ちょっと、人肌恋しくて?」
「へえ」
片眉を跳ね上げたアレクサンダーの声が数段低くなる。冷蔵庫に買ったものを収めたのか、カヅキもまた直ぐに姿を見せる。ビニール袋を落とし、その襟首をつかんだと思ったら、まるで猫の子を投げるかのようにアレクサンダーは手首を返した。
「おわっ!」
「あんたにはそいつがいるだろ」
「うん、おかえりカヅキくん」
「あ、はいただいまです」
まだコートも帽子も脱がない恋人を抱きしめると、さっきまで黒川もいた夜の匂いがする。一体なにが起きているのかわからないカヅキが顔を上げる。鼻の頭がすこし赤くなっていた。
肌が白いせいで、上気すると直ぐにわかるのだ。気まずそうに視線を泳がせるタイガは悪くない。全ては黒川の悪戯だ。それをアレクサンダーは分かった上で、タイガを離そうとはしない。
「こいつは、」
抱え直す。赤く染まった頬や熱を孕みかけた緑、どれも見せてやらないと己の胸に押しつけるように抱き直す。
「俺のなんで」
そして言い切ったアレクサンダーに、タイガが弾かれたように顔を上げて「モノ扱いしてんじゃねえ!」と抗議するのも、それが照れ隠し以外の何物でもないということにも、カヅキも黒川もついつい頬が緩んでしまう。あのアレクサンダーが、ここまで。
結局アレクサンダーとタイガが落ち着いてから粛々と鍋は始まり、食後のストリート系ダンスの録画やDVDの鑑賞で盛り上がったアレクサンダーがカヅキにのし掛かったり、ソファで始めた年長者二人に触発された二人が床で仲良くし始めたり、長い夜はこうして始まったのだった。