夏の記憶


 幼い頃に道に迷ったことがある。
 まだ、小学校の二年か、三年くらいのときのことだ。母に預けられた祖母の家は、都心で育ったアレクサンダーの想像できないほどに田舎だった。自然こそ多いが友達もおらず、一人で遊んでいるうちに、自分がどこにいるかわからなくなったのだ。泣きそうになるのを我慢して、泣いたら母親は迎えに来てくれないような気がして、そしてたどり着いたぼろぼろの社に、何かがいた。それはアレクサンダーに帰り道を教えてくれた。その代わり、また明日も遊びにくると約束して、そこ誰かと、父との離婚が決まった母が迎えに来たその日まで、毎日のように過ごしていたのだった。それきり、アレクサンダーはその家も、森も、社も訪れることはなかった。
「……何年ぶりだ」
 照りつく日差しは少し前から和らぎ始めている。秋の始まりをにおわせる空の青、雲はなく晴れ渡っている。二学期が始まって一ヶ月ほどが経ったその日、アレクサンダーは十年ぶりに、母の生まれ故郷を訪れていた。
 三日前、アレクサンダーのもとに一本の訃報が入った。母の、母が亡くなったのだ。母は、彼女とは折り合いが悪いようだったが、それを聞いて暫くの間ぴくりとも動かなかった。おかあさん。決して嫌っていたわけではないのだろう。どこかでできてしまった溝を、埋める前に相手がなくなってしまった。母は一人娘で、家を飛び出すようにして父と籍を入れ、アレクサンダーを産み、そして父と別れた。父は職場の同僚と不倫をしていた。なんとなく察してはいたが、子供に親が争うところを見せるものではないと、母は思ったのだろう。ずっと連絡をとっていなかった祖母にアレクサンダーを預け、一人で全てを終わらせてきた。それ以来、節目の折に連絡を取り合うようになっていたことは知っていた。身寄りも既に他になく、母は連絡を受けた翌朝、祖母の元へと発っていた。アレクサンダーが向かっているのは、ひっそりとした葬いと、家の片付けのためだ。それがやっとひと段落ついて、休憩がてら散歩をしているうちに足が向いたのが、森だった。
 足元にはどんぐりが転がっている。傘をつけているものが良いと、拾い集めたことがあった。独楽にして回せると教えてくれたのは誰だっただろう。足は勝手に奥へと進み、うっすらと記憶にある道無き道を掻き分けていく。三つ叉の欅の向こう。鳥居をくぐると空気が変わる。
「あった……」
 覚えているのは、もう少しきれいなものだったが、ぴたりと閉ざされたままの雨戸、ぐるりと取り囲む廊下には落ち葉が幾つも散っている。階を登ったところにいつも小さなのが一人。そして、もう一人は。
 アレクサンダーが訪れるといつだって屋根からふわりと降り立ち、銀の髪と耳、それにうつくしい尾を靡かせて「やあ」と微笑んでいた。小さなのは額に黒い角を持ち、やはり銀の髪をしていて、アレクサンダーと森中をへとへとになるまで駆け巡った。川ではびしょ濡れになって、夏の日差しにすぐ乾いて、彼の横で微睡んだ。小さなのに、普段はどんなところに住んでいるのかと聞かれて、話そうとして説明がうまくできなくて悔しかった。次々と鮮明な思い出が蘇る。
 しかし今、ここに二人の姿はない。そもそも、こんな場所には誰も住んでいない。
 アレクサンダーが初めてここに迷い込んだ日、祖母の元へと帰ったときには日はどっぷりと暮れ、そろそろ捜索隊が動き始めようとしていたのである。森の奥の神社にいた、そこで友達ができたのだと、珍しく心配したのだと声をかけてきた祖母に話したら、あそこはもう随分と前から、祖母の母のそのまた母親が生まれる前から誰も住んでいないと言われ、翌日からは日が沈む前に帰るよう約束をしたものだ。だが、アレクサンダーは、翌日もその社で銀色の耳を持つ男と、小さいのと会った。間違いない、彼らはここにいた。
 今もまだいるのだろうか。枯れ葉を踏む乾いた音が石段に響く。ちいさな社は、成長したアレクサンダーにはひどく小さく見えた。あの頃は飛び降りることはできても超えられなかった欄干も、今では手をかけてしまえば登ることも容易いだろう。傷んではいるが、どれも見覚えがある。そして、覗き込んだ縁束のひとつには、背丈を比べた傷跡が残っていた。あの夏は、確かにここにあったのだ。
「……冷と、カヅキ」
 あの頃、とても大きく見えた背中はどこにいるのだろう。優しく美しかったあの男は。ざあ、と吹き抜けた風が髪を揺らしていく。木々のざわめきがおさまると、アレクサンダーは時計に目を落とした。子供の足では大冒険だったここまでの距離も、伸びた手足ではそう時間もかからない。とはいえ片付けはまだ終わっていない。そろそろ帰らなければ。
 蘇る記憶とともに、胸に沸いた期待のようなそれ。ずっと忘れていたきらきらしい思い出は、ここを離れたらもう二度と思い出せないような気がして、離れがたい。しかし、もう一度、その姿を見られたならば。約束を、果たしたならば。
「約束って、なんだ……」
 指切りをした。東京に帰ることになった、夏休み最後の日のことだ。ぐずる小さいのと、冷と、何かを約束した。しかしそれが思い出せない。いったい何を約束したのだったのか。
 足を止めたアレクサンダーが考え込んだ、そのとき。かさりと草を踏む音が、アレクサンダーではない何かが立てた音が、社を包む空気を揺らした。耳に届いた瞬間に、弾かれたように顔を上げる。そして、ゆっくりと振り返る、その先には。
「冷、?」
 あの頃と変わらぬ、銀の髪に銀の耳、うつくしい尾を持つ男が、立っていたのだった。


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