ボーダーライン


 肌寒さで目が覚めた。冬の朝は、流石に毛布一枚、しかもはみ出た状態では寒すぎる。
 頭が痛い。年末だ忘年会だと男二人でいろんな酒を浴びるように飲みまくったせいだ。見たことのある部屋で、知っている男が隣で寝ている。この部屋で飲んでいたから当たり前だ。問題は、痛い箇所が他にもあるということと、タイガと家主の男が素っ裸であるということだった。年の瀬も迫りくる十二月の最後の週に、香賀美タイガはアナルバージンを失ったのである。

 うっすらと記憶は残っている。寧ろ、残りすぎている。アレクサンダーの仕事終わりに駅で落ち合い、途中のスーパーで酒と食料を買い込んだ。忙しい時期ではあるが、翌日がオフだったのが二人のたがを外したのだろう。両手に持つビニール袋が詰め込みまくった瓶と缶の重みに耐えかね、部屋についた途端に破れてしまった。惣菜が無事だったことにほっと肩を撫で下ろし、それから切った具材を放り込むばかりの鍋となった。適当に選んで適当に入れたものでもそれらしい味になるのだから、鍋の素は偉大である。
 はじめはビール、それからワインやハイボール、半分ほど減ったところで「荷物多くねえか」というアレクサンダーの言葉に、タイガが背負ってきたリュックから実家から送られてきたという一升瓶を引っ張り出したのは、飲み始めて三時間ほどが経過した頃だった。かつて一世を風靡したプリズムスタァユニット、Over The Rainbowが一夜限りの再結成で出演する、バラエティ特番が始まる直前だった。今や現役で芸能活動を続けているのは速水ヒロのみ。神浜コウジはたまに作曲や演出として顔を出すことはあったが、二人の共通点である仁科カヅキは、メディアへの露出はほぼゼロといっていい。しかし、男子プリズムショー界の発展に大いに貢献した彼らは、今もその曲が多くの場所で流れ、ときにカバーされ、人々の記憶から消えることはない。
「またあいつはチャラチャラした格好しやがって」
「二十代後半で短パンはねえよなってカヅキさん自身も言ってたから許してやれよ」
「ハッ、中学生の間違いだろ」
 そんな可愛くないことをいいつつ、番組内の企画としてデビュー曲を踊り始めた彼らから、目を離すことはできなかった。正確に言えば仁科カヅキから、だ。その一挙一動は衰えるどころか、より鋭さを増し、より男らしく、磨き上げられている。エーデルローズを出たことが、結果として仁科カヅキをストリート系のカリスマとして完成させたのだ。二人共、時折カヅキと会って、高架下などで共に踊ることはあったものの、本気のショーを見るのは随分と久しぶりのことだった。
 二時間枠の番組は、体感時間としては一瞬だった。その間に鍋は雑炊まで食べ終わり、空き瓶と空き缶がちゃぶ台に乗り切らないくらいに増えていた。ベッドに寄りかかって昔の映像を織り交ぜてプリズムショーの今までをああでもないこうでもない、こんなこともあった、あれの裏であいつがどうのと思いつくままに話をしていた。番組のエンディングはFlaverで、「あのローズパーティ行った、あの裾の短さは無え」とアレクサンダーがしみじみ言っていたのは覚えている。
 ニュースに代わったチャンネルはそのままに、確か水を取りに行こうと立ち上がったのだ。ピッチャー代わりの瓶は全て空になっていたし、タイガもアレクサンダーもまだ呑むつもりでいた。双方酒豪とまではいかないものの、酔い潰れるまで飲んだことはまだない、二十代の若者である。潰れたところで勝手知ったる友人の家だ。どうとでもなる。そんな甘えも確かにあった。
 そう、友人と呼べる関係になっていた。初めて高架下で出会ってからはや数年、互いにストリート系プリズムスタァとして活動を続け、ぶつかり合うこともあれば、チームを組まされることもあった。しかし、何よりも大きかったのは、やはり仁科カヅキの存在だ。とある番組でストリート系の特集が組まれ、タイガとアレクサンダーが彼について白熱した議論をし、その大半がカットとなったのは有名な話である。それが切っ掛けで、例えば仁科カヅキの出るDVDを見たり、雑誌についてメッセージが飛び交い、酒が飲める歳になったら居酒屋で番組の続きの議論が始まったり、そのうちにプリズムショーについても話が広がっていったのは、結局二人共がスタァである限り、ごく自然な流れだったのだろう。定期的に情報交換をして、酒が入れば仁科カヅキに文句を言ったり讃えたり、とにかくそうやって気に入らない者同士だった二人の距離は縮まっていた。極めつけは、アレクサンダーが友人の一人にタイガを挙げたことだ。知り合いいろいろから良かったなとメールが来た。仁科カヅキからも例に漏れず、文句を言うためにタイガを呼び出し、食事をして、高架下で踊って解散した。
 そんなことを繰り返していれば嫌でも距離は近くなる。男同士という気安さ、近い趣味、同じ頃にデビューしたプリズムスタァという経歴。そういうものが、壁を大した高さにはしなかった。エーデルローズの面々とは話しにくいこともアレクサンダーとの会話の中でぽろりと出すことはあったし、逆にアレクサンダーのぼやきを聞くこともあった。互いに女が苦手でいじられた時なんかは、彼女なんかいなくたってとビールを飲み干したものだ。
 そんな、気の置けない相手の部屋だからだろうか。戻ってきて、隣に座り直して、水、と言ったアレクサンダーにグラスを渡そうとして手が滑って。
「あ、わり……」
 布巾代わりにおいていたタオルに手を伸ばして、再びバランスを崩す。タイガを支えたのは、アレクサンダーだ。色の濃い肌が、タイガの北国生まれの日焼けしていない腕を掴み、引き寄せる。反動で鼻先がぶつかるほどに近づいた顔は、半分異国の血が混ざっているのもあり、男らしく精悍なものだ。ああ、いつ見てもきれいな紫色をしている。そんなことを、ぼんやり――
 重なった厚い唇の熱さ、入り込んできた舌から伝わるアルコールに痺れ、注がれる唾液は甘く指先までを酔わせていく。離れたはずの口が再び触れ合い、それがより深く長いものになっていくのに時間はかからなかった。伸し掛かる重みがどうしてか心地よい。頭の芯がくらくらするほどに長い口付けと、互いの肌を弄り合う手と足と、体の中心を抉る灼熱。痛くて苦しいのに紛れもない快感が、タイガを襲っていた。
「……、……」
 あれはセックスだった。紛れもないセックスだった。なぜやったかわからない、酒の勢いだったとしても酷い冗談だけれど、あれはセックス以外のなにものでもなかった。いつもは香賀美と呼ぶアレクサンダーが「タイガ」と言う低い声が、耳の裏にこびりついて離れない。タイガ自身、痛いだの苦しいだのという後に、散々声を上げて鳴いていた――ような、気がしなくもない。喉ががさついているのはそのせいだと、思いたくない。
 正直なところ、そういう行為は生まれて初めてだった。誰かの裸に触れることも、触れられることも、人の手でイかされることも。なぜなら、セックスは恋人とするものだからだ。好きあった相手とのコミュニケーションの一つだ。タイガは今まで誰かに恋をしたことはない。強いていうならば仁科カヅキに向けていた敬愛が、それに一番近しいものだったが、それが形になることはなかった。
 それを、してしまったということは。
 ぎぎぎと油切れの機械のような音がしそうな動きで、隣に寝転がる広い背中を見下ろすと、そこには幾筋もの赤が刻まれていた。等間隔で三本ずつ、それが左右高さの違う場所にある。どうやってついたかなんて考えるまでもない。言葉を失ったタイガの目の前で、その背はゆっくりと寝返りを打ち、のそりと起き上がる。
「あー……? なんで裸……、……ァ……?」
 寝惚け眼も色男のものとなれば息が止まる程に見栄えがするというのか。しかしそれが一瞬で夢から醒めたとばかりに見開かれ、「あア゛……?」昨日とは全く違うドスのきいたものだった。アレクサンダーもまたこの事態を理解したのだ。
「ぁ……大和、」
「待て言うな」
 辛うじて毛布で股間を隠し、額に手を押し当てるアレクサンダーが呻いている。その前で覆い隠すものもなく前進を晒していることに気がついたが、剥ぎ取られたパンツも服も手が届く範囲にはない。結局、待てと言われたまま動きを止め、ちらりと顔を上げたアレクサンダーがぎりりと歯を噛み締めているのを眺め。深い、それは深いため息を吐ききったアレクサンダーが意を決して顔を上げたのを、真正面から受け止めた。
「……責任は、取る」
 斯くして、大和アレクサンダーと香賀美タイガの交際は始まったのである。


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